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「台詞使い」その名は役者〜綿菓子と役者と台詞の話〜

どうもdbd半です。最近にしては日にちが少し空きました。
今日は役者の話です。

例のごとく、有名人にならったものではない、あくまで半流です。

 


言葉になる前の気持ち。

台詞について。

 

 

台本というのは、基本的にセリフで成り立っています。
最低限の動きやきっかけについてはト書きと言われるものがありますが、
お互いが発する言葉で物語を進行し、ドラマが産まれ、結末に至ります。

役者というのは基本的に”台詞使い”です。
ここでは魔法使いのような響きで役者の役割は”台詞使い”と言いたいと思います。

台詞・・・なんでしょう。

私が、今回舞台に取り掛かっている練習の中で、稽古場外で気づいたことがあります。


台詞・・・それは、思いの塊の一部に名前がついたもの。


感情は複雑です。嬉しい気持ち、ハッとする気持ち、ちょっぴりやきもちを焼く気持ち。
私たちの心は一概にこうだ!という一文では表せないのが前提にあるのを、ご存知ですか?

 

たとえば、美味しそうなふわふわの綿菓子。
この綿菓子が気持ちの塊だとするなら、そこから少し一掴みしたのが、たぶん言葉なんです。
そしてどんな所をちぎっても大きくちぎっても小さくちぎっても良いわけです。


綿菓子は流動的に変化します。
イチゴカラーが強かったりみかんの色が混ざったり、カラフルなレインボーになったり。

そして一掴みして言葉として誰かに渡そうとするとき、その一掴みでさえ、実は一色では無いものが、言葉という形になった瞬間、途端に誰もがこうだろうと思う「言葉のイメージ」に染まります。


それが「ありがとう」という言葉だったのなら、その形を持たないふわふわしたものから、瞬時に「ありがとう」という音だったり文字に変身するんです。
皆の知っている感謝の気持ちを表したものになります。

「ありがとう」と発した途端思いは「ありがとう」という名前のついた存在になります。形になるのです。


例えばどんなに強く思っていても「ありがとう」という言葉が無かったのなら、あなたはどうやって思いを伝えますか?


言葉は、想いを相手に伝えられる最強のツールです。
こんなにありがたいものがこの世に他にあるでしょうか?

 

想いを言葉にしたり文字化、音化、具現化することで自分と他者との意思疎通が図れる。
伝える事ができる。つながる事ができる。
単純かつ明快に。
想いを伝えられる!!


一方で、言葉はとても不便です。

ちぎられ変身した綿菓子は単純化、明快化した代わりに、もともとの綿菓子の存在を忘れられがちです。
いえ、見えなくなってしまうんです。
発した人の「ありがとう」のイメージから受け取った人の「ありがとう」という単語のイメージに変換されます。
その元々の綿菓子の色を見分けることはとても難しい。


言葉に変身した綿菓子の気持ちは、形は「ありがとう」でも、実は綿菓子に変わりないのです。
綿菓子は、ちいちゃくちぎって渡して、変身しても、綿菓子は綿菓子なんです。


だから、単語の奥には、「感謝」の気持ちはもちろん、実はそれ以外の思いも複雑に入り混じっています。

その入り交ざった思いの塊に気づいたとき、私は一冊の分厚い本を見てこう思いました。


「これは本じゃない!想いの塊だ!」

 

背中からぞくぞくっと、会ったことのない人々の思想がページの奥に凝縮されているのを感じたんです。
これを書いた人、携わった人、距離を超えて、時間を超えて今私の目の前にある。
もうこれは私も言葉にすることは出来ません。
想いの塊、そのもの。
私はじっと本を見つめるだけでページもめくることは出来ませんでした。


余談ですが、時折純度の高い言葉に出会うこともありますよね。
渡された「ありがとう」の感謝のと言葉。
感謝の気持ちがその中にぎっしり詰まってる。
ほっこりするような相手を敬うような気持ちがぎゅうっと詰まった「ありがとう」

ありがとうは一例ですが、そんな純度の高い思いに振れると、人はきっと心を揺さぶられるのでは無いでしょうか。書いていて気づきましたが、私の目指す演劇の近いところはこれだと思います。

 


先ほども具現化した言葉にその背景を読み解くのは、とてもとても簡単な事ではありません。

でも時折、ふと言葉の奥にある綿菓子がこっちを覗いている時があります。

私はちょっと変かもしれませんが、時々文字や言葉を見たり聞いたりしているときに、ふわっと言葉になる前の気持ちを感じる時があります。

とても感情的で、思い込みなのでは?なんて思うこともあるんですけどね(^^;)

 

そして、「台詞使い」である役者はこの逆なんです。


台本から、言葉を拾います。
役者は言葉を発するわけですが、言葉を出す上で、もともとである気持ちの綿菓子の存在がなければ、言葉に変身させてあげることは出来ません。

 

その綿菓子の存在をもって、綿菓子のどの部分ををちぎって相手に渡せているのか?
そうして台詞を言えているか?

また言葉になった綿菓子をちゃんと受け止めているか?
文字列ではない言葉の奥にある綿菓子を理解できているか?

同じ思いを受け止め投げ返しているか?

 

これが出来ている時、見ている側にもいつの間にかセリフではなく想いのキャッチボールが見えてくるように思います。


私にとってのLIVE感覚(今ここにいる感覚)はこれがきちんとできているかできていないか、です。


こうは言っていますが、このやりとりはとても面白い代わりに、実のところとても難しい作業です。
複数名であれば難易度はさらに増すでしょう。

私自身もこの一年、稽古場で感じれたのはほんの2回くらい。

ただし、この感覚になった時は、ほんっとうに、気持ちがいい!!

一度は大阪で読みをやった時(台本を持ちながら役をふって読むだけです2人)
もう一度は、テキストを使った即興です(あらすじときっかけになるセリフだけを拾って話を展開する2人)


ここで即興(インプロとも言う)の話を少し。


先にも述べたとおり、台詞の前に想いを構築して言葉にするというのは普段の生活の中の逆です。

○普段の生活:思考(綿菓子)⇒言葉(ちぎって渡す・受け取る)
○台詞   :台本の言葉⇒発する前から思いをたどる(綿菓子の構築)⇒言葉(台詞・発する受け取る)

 

 

私が思うに、インプロは逆の逆だから、台詞がちゃんと言葉になる。
思考があってそれから言葉にするから、普段の生活通りなんです。これは実に効率が良い。

 

○インプロ(即興):思考(綿菓子)⇒言葉(ちぎって渡す・受け取る)

 

私はインプロが好きは有りませんが、関東に来て演劇の中のインプロについて触れる機会が増えました。
今でも得意ではありませんが、こう考えるとインプロの魅力を感じている人がたくさんいるのが少し理解できたように思いました。


でね、インプロ好きな方は逆に台本が苦手だって話を少し聞きました。

 

 

 

そんな方に私は言いたい。
やっていることおんなじだから=================!!!!!!!!!!!

 

 

私ができているかというと、それはちょっと横に置きます(笑)

お互いを感じて、想いがあって、言葉を言う。
想いがない言葉は、ただの文字列になるだけ。思いがあってたまたまセレクトした言葉が台詞。
想いから言葉を紡ぐ作業ができるのが役者。
想いのある台詞はキャッチできるけど、想いのないセリフはキャッチできない。

 

ただそれだけ。

 

だから、決まった台詞があったとしてもアンテナを張らないといけないのは当然変わらない。
相手がどんな表情で、どんな節で、どんな想いで綿菓子を渡してくれているのかを感じるの。
それができるかできないか。

自分が何を思って、この言葉をセレクトしたのか?どんな思いで発したのか。
綿菓子をちぎって渡すときに、もともとの綿菓子からどんな所を選んで言葉に変身させたのか?
(だんだん自分に言ってきているねこれ(笑))


役者にとって、台詞はとても大事。そこから気持ちを読み解くからね。
でも、台詞を言う前に想いを持っているかどうかがとても大事なんだ。


相手に届けたい、その気持ちが、言葉になる。

だから、本当は「ありがとう」じゃなくってもきっといいだ。
「thank you」でも「謝謝」でも
「くそったれ」・・・でもね(^^)

これを見つけていくことが、稽古場の楽しさなんだろうな。

 

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!
思わず書いちゃった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!

台詞覚えなきゃ(><)


ブログ更新は少し間が空くかもです。あかないかもです。

がんばりますm(__)m