dbd-hans-collection101のブログ

さぁ、世界をつくろう。 人生には刺激が必要だ。 dbd-hans-collection略してdbdの半のブログ。ほぼ一人で立案から創作完了まで行う芝居何でも屋。そんな芝居人、半が感じたアレコレを書き綴って参ります。

dbdでは感想・ご質問"大募集"!! 少しでもご興味ある方、お気軽にご連絡ください お問合せ<dbd.hanscollection@gmail.com> ツイッターも始めました。 #dbd_han どうぞよろしくお願いします!!

全部正解なんて無いように、全部間違いなんて事もない

こんばんはdbd 半です。

 

今日は夜遊び半ちゃんです。

深夜0時23分今なぜか上野にいます。

はい、帰り道を間違えました。

 

 

どうしても団体メンバーとお話ししたいことがあり、珍しく平日の時間を使ってのことでした。

ついつい話は長くなります。

こういう時間は貴重です。

お酒を飲んでいるわけでも無いのに、時間が過ぎるのが早いの早いの。

 

それでも終電を確認したら、余裕で帰られる時間でした。

のはずでした。

ここは、お約束を破らない性格のようです。

柏から新松戸で乗り換えという文字を確認したら、着いた駅名は松戸駅

あら、ここじゃ無いのかしら?

確か乗り換えは新松戸駅のはず。

 

もう一度車内に乗り込みます。

シューッ

ドアが閉まります。

 

北千住

 

 

北千住?

 

 

 

ふっ、いつものことです。

そうなんです。

私はどうもこういう時、間違いなく間違えるのです。

少し言い訳をするのなら、一つめで電車が遅延していました。すでにその時点で、どこか見るところを間違えていたのかもしれません。

 

そう言えば、むかし、母親に、豆腐を買ってきてと言われて、何度も念じて自転車に乗って買い出しに出た事があります。

もめんもめんもめん、、きぬじゃないほうきぬじゃないほう、きぬじゃないほう、 きぬきぬきぬ・・・はい、もうお分かりですね?

 

こういう性格なのも、もう慣れっこです。

何年自分と付き合っていることやから。

次は間違えずに、帰られるようにしっかり調べます。

 

ダメ

 

ダメ

 

めっちゃ遠っ!

 

仕方ない。

 

到着予定朝5時は無視して、遠回りでも着実に変える選択をしましょう。

 

北千住から、日暮里、日暮里から秋葉原秋葉原から西船橋

 

西船橋

 

こうなると、西船橋の文字を見るだけで安堵感が。

 

私、本当に千葉から、と言うか、地元と会社以外出歩いてないなぁ。

 

今ようやく秋葉原から総武線に乗り換えられたので、もう安心です。

 

終電〜

終電〜

 

ま、こんな夜遊びしちゃうなんて、いけない半ちゃん。←もうへんなテンション

 

終電て、こんなに混むものなんですね。

たくさんの人が経ったまま、千葉方面へと電車が走ります。

 

 

さて、この間に前回の続きを書きましょう。

え、前回の話って何だったって?

はい、相槌のおはなしでした。

何かを、コミュニケーションをするのにあたって、イエスノーの前に、「聞いてるよ」って、大事だよね?ってお話。

 

 

でもね、もう一方も話も書きたかったの。

それはね、発信者側のお話。

 

前回の記事は感情的になる部分があったのね。でも、一方で、自分がそんな空気にさせてしまったんだなって思う部分があるの。

 

誰しも、率先して意見を言えるわけでも無い。

意見を求める前に、聞こえてるかどうかの話なんだけど、それも言える空気言えない空気ってあるよね?

 

私にはそんな空気を作ってしまった一因があるのは、間違いないの。

全て私のせいだなんて、それはそれでおこがましいと思うのね。

皆や相手があっての今だから。

でも、結果というのは皆の行動や意思が折り重なって現れる瞬間瞬間の事だから。

 

ここで、肝心なのは、折り重なるのをやめないこと。

やめるのは簡単。団体でも、個人でも。

でも、その先に、行きたい<場所>があるのなら、今はその過程でしかないから。

どうにだって道は繋がっていけると思うんだよね。

 

こうなった一因があるのなら、行きたい場所へ向かう方角をズラす一因にも私はなれると思うの。

 

自分がなんでここまでしなきゃならないの?なんて昔なら、思ってたかな。

 

そういうのはさ、どうでもいいんだ。

いや、時には感情的にはなるけど、何か違うと思うのなら、いつもと違う行動を起こせばいい。ま、シンプルにそれだけの話。

自分に素直になって、どうしたいか?って自問自答して、動きたいってタイミングに行動を起こす。

自分きっかけなのか、誰かきっかけなのか、事象きっかけなのか、それはその時。

 

ただ、間違っちゃいけないのは、全否定すること。全てが正しいなんて事は無いように、全て間違ってるなんて事もない。

自分の中で違うと感じるのなら、良いと思う方向に修正すれば良いと思うんだよね。

 

きっとさ、その積み重ねがあって、その部分が太くなって、行きたい<場所>へ辿り着けると思うんだ。

 

人に対して、求める部分はあるよ。

だって私、人間が好きだし。

人との関わりは、他には変えられない。

 

でも、自分なりの核になるアンサーにはさ、迷い無くオッケー出して良いと思ってるのね。

 

変える部分は、ほんの一部。ほんの何かのきっかけで、一因になって、結果という瞬間瞬間が生まれるんだ。

 

だから、全て間違ってるなんて事は、人生において、ほぼ無いと思ってる。

 

だから、人はいつだって輝けるし、人は変われる。自分は変われるし、物事は変わる。

変わりたい方向をしっかりイメージして、方角を確認、どうすればいいのかを考えてやってみる。

それだけ。

 

それだけの話なんだけどね。

 

相槌の話では、相手に求める部分の話だったけど、そうではなくて、自分の中で変えられる事がまだまだあるはずだと思ってたの。

 

私だけの力でなんとかなるとこともあれば、なんともならないこともある。

 

でも、大事なことなら、自分を信じてブレずに行動することって、何より大切。

 

すぐに辿り着かなくたって、すぐに辿り着いたって、どっちでも良い。

今、目の前のお題に、自分がどう向き合うか。だよね?

 

 

あぁ、なんか深夜半ちゃんだね。ちょっと眠気モード→無駄に饒舌。

 

 

 

さて、書いている間に無事我が家にたどり着きました。急に視界が明るくなって、眩しいε-(´∀`; )

電車気をつけないとね。

 

ま、またやっちゃう可能性大だけど。

遠回りしたお陰で記事を書ける時間がありました(^^)

 

明日も仕事だー。あ、今日か。

ま、何とかなるっしょ。

 

あいづち

こんにちわ、dbd半です。


最近、大人のほうが、相槌を疎かにしているような気がしています。

 

相槌・・・別にすべてにYESとして答えを求めているわけではありません。
ただ、私の話は理解できますか?どうですか?言葉足らずでしたか?ということを知りたいと思います。

 

芝居仲間、ダンスグループ、家族間、友人間、そのほかのグループ。
私も複数の仲間とラインでグループ機能を使い、話を共有しています。

ですが、若年層というより特に良い年した大人に見受けられるなと思うのは、いわゆる既読スルーと言うやつです。
ネットの普及で、様々なかかわりができるようになりました。

 

言いたくないことを言わなくても構わないと、基本的に良いと思っています。
でも、大人だったら、「返事ぐらいしろよ」「挨拶くらいしろよ」「分かったか、分かってないかくらい言えよ」そう思います。

 

子供のころ、教わりませんでしたか?
「挨拶は大きな声で」
「始めと終わりはきちんとしよう」
「お返事をしましょう」
子供の頃に教わることは、大人にとっては常識だと思いますが、私が間違っているのでしょうか?


芝居間にとどまらず、家族間やその他のグループでも、こういったことが気になったことが最近立て続けにありました。
なので、どこか・・・と言うのは控えます。
ま、要はずっと思っていたことの一つと言うわけです。

 

職場で教える側をしたことがある人なら、一度は思ったことがあるはずです。
”この人は私の話で理解してもらえているのだろうか?”


挨拶できない人は仕事はできない・・・なんて事は言いません。
できる人はできます。
ただ、自分がされて嫌なことはしない方がいい。
逆にしてもらって嬉しかったことはしていこう。そう思っています。
どうしても、気が向かないことは、私にもあります。無理に必ずしろと言うわけではありません。
しかし大人として生きる先輩として、どうあるべき姿なのか、どうしていきたいのかは、まず大人が見せなきゃいかんと思うのです。


芝居でも学校でもクラブでも、新人の人が入ったなら、まずは元からいた人を見習うのは、当然です。
そこに年齢的なものではなく、在中している人が先輩になります。
メールでも、対面でも同じ事です。
メールだからしなくてもいいとか、直接会ったのならちゃんとできるし、なんていうのは、傲慢さを感じます。


簡単な想像をしてみてください。
新しいドアを叩くとき、皆さんは緊張しませんか?
上手くやっていけるだろうか?どんな人がいるのだろうか?
そんな面持ちだったはずです。

初めての空間に入るのはとても勇気がいります。知り合いが一人二人いても同じです。
新しいところに自ら飛び込むときは、いつでも緊張と戸惑いがあります。
在中メンバーもそれは経験してきたはずです。

ドキドキのさなか、ドアを開けた瞬間。

 

 

「はじめまして○○です。よろしくお願いします」
シーーーーーンf:id:dbd-hans-collection101:20181101143004p:plainこれって、どういう心境でしょうか?
相手を知らないのは当然です。お互い様です。
だから挨拶しているんです。
なのに、既存のメンバーが誰も何も発しない。
既存メンバーからのウエルカムの姿勢が無いのと在るのとでは、その後の取り組みの差が大きく違います。
実は、こういったことを目の当たりにしたのは1度や2度ではありません。
所詮、メール、所詮ライン・・・かもしれませんが、団体としてそれでいいのでしょうか?


そもそも挨拶というのは、コミュニケーションをしやすくする第一口です。
電話の時に、なぜ「もしもし」というのか、知っていますか?
最初の音は聞き取りずらいんです。
たいていの場合、「もしもし」の「も」の音は切れてしまいます。
「もしもし」の後からなら、本題の話が聞き取りやすくなり、聞く姿勢になり話を受け入れられます。
一方、話す方も一度声を出して、自分の声のトーンや癖を耳で聞いて感じています。
次に出す本題の内容に話し方を調整して次の話を始められるんです。
つまり、双方にメリットがあるのが、言葉としては意味のない「もしもし」なんです。


挨拶できない。相槌打てない。イエスもノーもない。
そんな事が、当たり前で良いんでしょうか?


発信者の内容が明らかにチンプンカンプンで意味不明な内容なら、私もスルーします。
ですが、基本的に内容に同意しているとか同意していないとか、そんなのは二の次で、私の声は届いていますか?の確認作業は必要なことです。

相手やその内容を理解しようとする姿勢が在るの無いか?まずはそこからでは無いでしょうか?

 

 

*    *    *


なぜ、芝居ブログで、こんなに相槌や挨拶に語気を強めているか?というと、それは必ず芝居に影響するからです。
演出と役者、役者同士、役者とスタッフ、スタッフと演出。
あらゆるコミュニケーションが芝居を形成する礎です。

「もしもし」同様、初歩的なコミュニケーションがとれる間柄は次の本題に入りやすいのです。
次の本題に入りやすいという事は、決められた時間の中で、クオリティの高いところを狙えるという事です。打点の高いところで打てば、高得点をとれるチャンスは高まります。

 

良い団体、良い組織は内部のコミュニケーションが素晴らしいです。
一人が質問を投げれば、別の人が質問の意図を汲み取り、分かりやすく説明したりできます。一人が問題定義をすれば、別の人やさらに他の人が、アイディアを出したりできます。
それができる団体と、そうではないワンマンで進行する団体との差は、大きい。

 


私が営業経験をしていることが、ここまで強めに言える理由でもあります。
上手い営業マンは、必ず相手の相槌を引き出します。
相手がわかってないと思えば、応えやすい質問に変えたり、相手の興味のあるものに話を変えます。
そして、トークの要所要所で、「そうですね」と相互理解を確認し、それから「せーの」で次の段階の話をしていきます。
話の内容のイメージが共有されているから、次の話も分かりやすくなります
上手い営業トークは聞いているだけでも気持ちのいいものです。

 

対して、下手な営業マンは相手のことを気にしません。自分の知識のノウハウをただ津々と話し続けたり、自分の目線での話でしかない。買う気満々だったとしても、意気消沈、最終的に購入したとしても良い気持ちは残りません。

この違い、雲泥の差だと思いませんか?


上手い営業マンとの会話は、それだけで高揚しますし、勉強になります。
それだけ相槌と言うのは、とても重要なことなんです。

「お互いここまでの話は、理解していますね。(うん。)では次の話をしますね。」
「お互いここまでの話は、理解していますね。(うーん。)ではもう一度話しますね。」の大事な合図です。


と、ここまで言いましたがもちろん私たちは営業マンでもなければお客でもありません。
お客ではないんです。もう一度言いますね。お客ではありません。
相手を喜せようとすることはあっても、喜ばしてもらえる人はいません。
団体に所属したからと言って、サービスを提供してもらえるなんて思うのは大間違いです。

営業マンが相手なら、手を変え品を変え、お客さん(自分)を喜ばせようとします。そこにはマネーの対価があるからです。
芝居仲間の間でそんなことがあると思いますか?

そう、答えは、NOです。

 

誰も自分を楽しませてはくれません。自分が楽しもうとしなければ、誰もあなたを楽しませてくれる人はいないのです。
そんな「待ち」になった状態が続けば、いったいどうなるでしょうか?
楽しくないと思いませんか?
せっかく意思を持って参加した団体を、自分の中で有っても無くてもいい存在にしてしまって良いのでしょうか?

しつこいようですが、もう一度・・と言うか、たぶんこれからも何度も言うと思います。

「自分を楽しませるのは、あくまで自分です」
自分が楽しむために、どうするのかは自分次第です。


そして芝居は、お客さんがあってこそです。
お客さんを楽しませるのは私たちです。
さきほどの営業マンの話に戻りますが、自分の知識や価値観を押し付けるだけの人に誰も、相槌を打たないでしょう?

じゃ、どうすればお客さんが相槌を打ってくれるよう作品を作れるでしょう?
相槌をうつ、共感できる作品を作る、人を楽しませる作品。

そういうものではないでしょうか?

 

さらに具体的に、どうやって相槌ができるような作品が作れるでしょう?

分かりません。

私も、まだ模索中だから。
でもまずは自ら体感することではないでしょうか?そして、客観性を持つことです。

 

「こうしたら、こう見えるだろう?」
「こうしたら、こう思うだろう?」

「挨拶をして挨拶を交わせば、嬉しいだろう?」
「うなづいて、話が盛り上がれば、楽しくなるだろう?」

「挨拶をして、だれも返事を返さないのなら、どんな気持ちだろう?」
「話を聞いてほしいのに、無反応だったら、どうなるんだろう?」

 


冒頭で言ってしまいましたが「返事くらいしろ」「挨拶くらいできるでしょ?」そう相手に言うのは、簡単です。
簡単すぎるくらい簡単です。
でも、これには漏れなくプラスアルファ、「圧(あつ)」がかかります。
それは、今の私には余分な気がしているんです。

圧は、みんなの心を縮まらせます。
瞬間的なものかもしれませんが、それは根強く心に残るものです。
何より、強制してやらせるものなんて、アマチュアの演劇サークルには不要でしょう。

だから、私も書いてはいますが、悩んでいます。
悩んでいるからこそ、たかが相槌、たかが挨拶くらいで、こんなに長文を書いてしまうのでしょうね。(笑)

 

 *    *    *

なので、ここまで読んでくださった方が、どのように受け取ってくださるかは自由です。
こんなことはあくまで、半の思うことであり、一般的にはもう古い考え方なのかもしれませんし。
既読してくださった方が、半の文章を読んでいただき、自らどうするかを選択してください。

ぶっちゃけ挨拶一つしようがしまいが死にはしません。

願わくば、ささやかな事象ではありますが、自身の後悔の残らない選択を。

 


私は先生でも無ければ、指導者でもありません。
ながながと書き綴っていますが、それは教えでも何でもない、ただ半が感じていることです。
いちプレイヤーとしてどうあるべきかを、いつも考えています。

 

アマチュアはプロより面白い

お疲れ様です。どうもdbd半です。

前回自分の稽古動画について書かせていただきました。
恥ずかしいけど、出来ているか出来ていないかは、自分で見るのが一番です。

 

★そうそ、前回言っていませんでしたが、全部だめだから見たくないっていう方、いると思いますが、私は自分の動画を見るときは、「自分は小道具の一つ」くらいにしか認識していません。

置く場所が悪かったな、使い方イマイチ、向きを変えよう、そんな感じです。考え方だけですが、小道具の一つだと思ってしまえば見れると思いませんか?なので、「ヤダ」「恥ずかしい」「見たくない」は考えないようにしています。ww

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

 

 


昨今では、ダンスは、音楽市場、芝居中、ドラマ、学校、とても身近になりましたね。

でも、見るとやるでは大違い。

 

見れば見るほど、難易度の高さを感じます。

芝居でも通じることですが、自身たちが気持ちよくなればいい。・・と言うのは根幹にありますが、それをエンターテイメントに昇華するには、かなりの道のりだと思います。

 

エンタメと一言で言っても様々ですが、他者を楽しませる側に行くのなら、自分との葛藤がついて回るでしょう。

自身の向上心と怠惰と妥協との葛藤。

メンバーに対してどこまで言動を行うかの葛藤。

あらゆる外的要素をどう扱うかの葛藤。

それら全てが自分に降りかかってくるのです。


かと言って、いやいやで<作業>になり下がったものに、人は共感しません。

心から溢れるものに、人は共感して共鳴し、感動するのです。


すなわち、エンタメに持っていくのなら両方が必要だと言うことです。

 

表現するツールを、自分のお楽しみととらえるのか、他者を巻き込んだそれ以上のものを目指すのか、この差はとても多きい。
(社会人になった私たちにとって、どちらかが上とか下とかそういうわけではありません。あくまで方向性の違いです。)


ダンスは無声のため、すべて動きで表現することになります。
芝居なら、声の美しさ、感情のぶつかり合い、所作、もろもろ。見せどころは複数あります。

 

ダンスは動き一点集中。

 

一人で踊れば、それだけ魅了するpaworが必要です。
複数で踊れば、ほかのダンサーとの動きが揃わないと、とても残念です。

 


私が今取り掛かっているお題の曲は動きがとても速いんです。
そのため、先生の動きを一時停止・再生を繰り返しながら、動きを確認しています。
一瞬過ぎて目で追えない(^^;)
(そういえば、昔アニメの一つづつの動きが見たくて一時停止・再生を繰り返しながら見ていたことがありましたが、皆さんはしませんでしたか?なんだかデジャブww)


だからでしょうか。
見れば見るほど、「ちゃんとしないとやべぇな・・・」と緊張感が走るのです。

 

週一ペースで始めてまだ数ヶ月です。
できなくて当たり前です。
でも、のんきに週一回2時間のペースのレッスンだけでどうにかなるような、半ではありません。


不器用で、記憶力が弱く、リズム感も中の下。
これが分かっているのなら、やることはおのずと見えてきます。
体の動きを作るのに、直近一ヶ月じゃ遅い。
これも以前に別の時に経験させてもらったことでした。
長期的に継続的に行うことが大事。

 

 


グループラインの中で誰かが質問したのでしょう。


"どうしたらもっと上手くなりますか?"

 

切実でピュアな質問です。
私も思うところがありました。

 

"私も上手くなりたくて朝・放課後、毎日練習しました"


"毎日練習しました"

とてもシンプルですが、なんだか、胸が熱くなりました。
私は今何をしているのでしょう?
隣の芝生は青い・・・ように見えるかもしれません。
でも自分の芝生もちゃんとお手入れしてやれば、どんどん青くなれる。

 

素敵だなって思う人は、それだけのことをやっています。

 


半はプロでは無いけど、私なりのプライドがあります。
だからこそ頑張りたいと思える。


そして「プロよりもアマチュアのほうが面白い」と思える瞬間があります。


青臭くて、完璧じゃないかもしれない。
でも、純粋に気持ちをぶつけて、時には粉砕するかもしれないけど、何かを必死に求める心があります。

私は、そんな本能的な人間臭いところが、大好きなんです。

頑張っている人、頑張ろうとしている人を応援したいです。
私自身も応援されれば、私の力になります。

 

 

たまたまの出会いですが、私は私が思っていた以上に、自分にあったダンススクールを見つけたようです。

 

もっとできると思ってた

こんにちわdbd半です。

定期的なレッスン&稽古が入ってくるようになり、半の生活は順調に<日々お楽しみ>が増えてきています。

 

ところで、皆様。
芝居でもダンスでも、自分の動画って、見ていますか?

 


結構抵抗がある方が、ほとんどだと思います。
はい。半も漏れなく抵抗を感じています。

でも今は、それ以上に必要な事だと思っています。

 


芝居人の多くは、素に戻っている時に、トランス状態の自分など見たくないはずです。
内容にもよりますが、まぁ変人な領域であること、一般的な状態ではないことは、明白ですよね。
一般良識のお持ちの方であれば、なおの事、ね。

 


ただ、今現在の状態が「見るに値するものなのかどうか?」は自分で冷静に見極める必要があります。
当然のことですが、中途半端やこじんまりしたものは見応えがありません。
動画や写真で見る自分の姿は、お客さんに見せる姿です。
このままでいいのか?
どこをどう改善しないといけないのか?
自分の目で見るのが一番手っ取り早いです。

 


そこで、最近調子に乗っていた半は、自分の動き(ダンスの動画)を見てこう思ったんです。


「もっとできると思ってた」


そしてこう思いました。


「恥ずかしい」

 


見られること事態に恥ずかしいというのでは在りません(それは考えるのをやめました)。
見るに耐えられない自分の姿が恥ずかしいと思いました。


多分、自分はもっとできているはずだと、どこかでそう思っていたのです

それは少しばかり私自身の中で実感していたことだったから。
以前より体が軽くなり、できなかったステップが踏めるようになってきました。
ストレッチ効果で開脚も開いてきましたし、普段でも音楽を聴いてお題の曲を身近に感じています。
まだまだな部分は承知の上ですが、少しはマシになったと思っていたんです。

 


なんとなく、自分は見る側としては目が肥えているのだと思います。
今までの舞台を見てきている回数は、そこそこありますし、普段の生活でも見応えのあるものに意識をしています。

目から吸収したインプット情報は年々増していきます。


なのに、自分の姿は自分の想像とは違ったのです。
アウトプットが追い付いていない。
自分の中からの意識と、他から見られた自分、これは案外差が大きいものなんです。

 

 

*     *     *


なかなか、難しいですね。

良い時も有れば、そうでない時もある。
人生、これの繰り返しです。

でも、逆もしかり。
嫌な時もあるけど、良い事だってある。実際嬉しいこともありました。

 


まずは、自分が客席から見て、恥ずかしくない出来栄えに持っていくことです。
せめて一曲。

なんとか自分でゴーサインが出せるように、いそしみたいと思います。

 

 

 

諦めが肝心

「諦めが肝心」

 

大人になって好きになった言葉です。
同じ意図で「しゃーない」(「仕方がない」の関西弁)という単語も気に入っています。


仕方ない。
諦めろ。

 

一見ネガティブなイメージを連想してしまうのは私だけでしょうか?
少年漫画で育つお子達は今も多いと思いますが、その反対の言葉がよく出てくると思います。

「あきらめんじゃねーーーーー!!」
「まだおわってねーーーーーーーー!!」
的な。


今は、その解釈が少し変わったのです。

 


大人になって理不尽なことが沢山あります。
人事異動。
給与格差。
世間体。
醜聞。
地域性。
人間否定。
もろもろ。

組織と言うものがある限り、人と人とがコネクトする限り、必ず何かの障害は発生します。
その中でしか得られいない<イイ事>がある限り、人はコネクトするのを、やめられません。

 

そんな時、皆さんはどうしていますか?

重圧やプレッシャー、好奇な目、皆さんはどうやって対処しますか?

 

 

一昔、ふた昔前、若い若い半は、世の中が悪いのなら、ひっくり返せばいいんじゃね?くらい、それこそ少年漫画の主人公が言いそうな思考を持ち合わせていました。

もちろんそんな大それたことはしませんよ。(笑)


でも、理不尽な重圧があるのなら、自分は正しく周りが間違っているのなら、周りが変わるべきだ。
自分は悪くない。
悪いのは周りじゃないか。
そんな思いが強かったのです。

 

若干サイコパスの匂いがしそうですねww
いや、サイコパスまでいかずとも、一度は皆さんも思ったことがあるのではないでしょうか?


今はこう思うんです。

「諦めが肝心」


これは、本当の意味で諦めているわけではありません。
出口の無いほうに、思考を偏らせている場合じゃない。
自分のできることに向き合え。

「諦めが肝心」
「しゃぁない」


自分の中でそう変換される言葉になったからです。

 


世の中には理不尽がいっぱいです。
時には反旗を翻し、「物申す!」ことも必要だと思っていますし、飛んできた火の粉は払います。(←おほほ)

でも、それより大事なことがあるのなら、肝心要を忘れちゃいかんと思うのです。


先日アップした記事で私はこう書きました。

 

 

「舞台にトラブルやイレギュラーは付き物ですが、今回のような経験は他では無いものでした。

でも、そんな時に、誰があぁだこぅだ、なんでこうなったんだ・・ではなく、目の前に置かれた状況にただ応じる。

 

そんな姿が、カッコよく、潔く、羨ましく思えました。」

 

 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 


これって、めちゃくちゃ大事だと思うんです。

あらゆる場面で、もう終わってしまったことや、決まったルールに対して、私たちは「うん」と言わざるを得ません。
不満や鬱憤もあります。
○○のせいだと言いたくなる時もあります。
ついでに罵り蔑み嘲りたい時もあります。(←ちょいs。冗談です)


でも、一呼吸おいてもう一度見渡した時、自分たちの本題がそれによって、どれだけ問題があることなのでしょうか?
自分のやるべき事は、そのせいで全くできないのでしょうか?
今、問題に対して糾弾してどうにかなる問題なのでしょうか?

半は思うのです。

出口のない思考に捕らわれるな!


考え方は、人それぞれです。

でも、考え方で人は(自分は)変われる。

 


舞台で円滑に公演をするには、どこかでこの思考が必要だと思っています。
誰かに期待をするのではなく、自分の役割をきちんとこなすこと。

 

どうすれば、自分が本来やりたいことに近づけるか。それに尽きると。
失礼な言い方になるかもしれませんが、どうしたら自分のやりたいことが出来るのかを考えるのに忙しくて、周りの環境や欠陥をあれこれと親切に言えるほどの時間はないと思っています。


せっかく人と絡み、いい作品を作りたいと思っているのなら猶更です。
真似したい部分を取り入れ、「面白い」「楽しい」をたくさんインプットしたいのです。


こう思えるようになって、半は幸せだと思います。
私、本当に「人や作品の良いところ」が、たくさん見えるんです。

 

 

特に、お若い方は、袋小路の思考に行き詰ることが多いのでは無いでしょうか?
もし、私の子供が成長してこういった悩みを抱える事があるのなら、今の事を伝えてやりたいと思っています。

今はこんなことを言われてもチンプンカンプンに感じるかもしれない。
でも、いつか自分の目標ができたとき、ふと思い出してもらえたらなぁと思います。


自身のやりたい事があるのなら、袋小路の思考に閉じ込もって・・・・・る場合じゃない!!って。

 


とある方が、最近「本当に(事実として)、人はなりたいようにしかならない」と仰っていて、半もものすごく共感したので、その影響かな。割とまじめな思考の話でした^^。

ダンス始めました〜その2〜

 こんにちわ。dbd半です。

 

先週日曜日、下田での本番を終え、体がうずうずしている間に、水曜は習い事のダンスをしてきました。今週末、日曜日は15:00~18:00でふぁんふぁん(大人子供芝居稽古)もあるので、シフトレバーがD(ドライブ)の状態になったままです。

この調子でいっちゃうと、止まらなくなりそうなのがちょっぴり怖い今日この頃ww

 

さて、間が空きましたが、ダンスの話が途中で止まっていたので、その続きを書きたいと思います。

 

↓前回の記事です。 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

内容を要約すると、ダンスを始めた理由は、自分が思ったように体が動かせなくて悔しかった、とこういう事でした。

うわぁ~一行で収まるww

 

で、その他にもダンスに魅力を感じた理由がありました。

1、体を基礎から動かしたい

2、定期的な運動がしたい

3、表現力を身に着けたい

4、音を聞く耳力・リズム力を鍛えたい

5、絡みが無いので自主練しやすい

6、個人練が芝居より恥ずかしくない 

 

列挙してみると、こんなところです。

下二つは個人的なところですが、、まぁもう少しづつ順を追って語らせてください。

 

列挙したところで、お分かりだと思いますが、ダンスに特化したい・・というより半にとってダンスは通過点です。

ダンス一本でやられている方、言い方が極端ですが、どうぞ怒らないでくださいね。

ダンスの世界と芝居の世界は近いけど全く違います。

ダンスの道は奥が深くて、週一回の半が到底習得できるものではないと思っています。

ダンスの良い部分と芝居とが共通しているところも多くて、半はその良いところどりをさせてもらっているにすぎません。(^^)

 

 

1、体を基礎から動かしたい

当然ですが、定期的な稽古をしていないと体は鈍ります。基礎から鍛えるというのは体の柔軟性や、体の部位を思うように動かせるようになりたいからです。

私が見ていてすごいなぁと思うジャンルにパントマイムがあります。ノンバーバル(非言語コミュニケーション)の表現としてパントマイムはその筆頭ですよね。

ノンバーバルの良いところは、全世界に通じることです。日本だけにとどまらず、心のコミュニケーションができることです。また日本であっても言葉尻に捕らわれず、意思疎通ができます。

半はパントマイムがやりたかったのですが、なかなかパントマイムを指導されているところはありません。でも、体の部位を動かすという点で、ダンスはとても近いものがあります。

 

レッスンを初めて2か月ほどですが、やってみて分かったことは、ストレッチなどで体の可動域を増やせることです。

開脚のストレッチや肩甲骨を動かすことを意識的にやることで、同じ動きをしてみても、ダンスをやっていないときと比べれば、かなり違ってくることが想像できます。

 

表現をするという事は、本来の気持ちそのものや心の流れを、大きく外に出すことです。そこには多かれ少なかれ強調・誇張・デフォルメされたものが見やすく面白さがあります。体1cm可動域が広がれば、舞台上ならとても大く躍動感が違って見えるのは想像できます。

私が通っているダンスレッスンは、その基礎部分もしっかりとしてくれるので、かなりまじめに基礎を磨いています(^^)

 

 

2、定期的な運動がしたい

鈍るよね。もう~~~~ものすっごい鈍るよね。アラフォーとは言わない30代の半は、日々それを感じていました。

何かやらないと、やべぇ・・・。

 

3、表現力を身に着けたい

自分でいうのもなんですが、表現力はある方なのではないかと思っています。

ま、芝居やっているくらいだしね^^;

でも、自分で気づいていることが一つ。

ワンパターン。

要は癖ですよね。たまにしかしないことには、あまり手数が増えないものです。

さっと出る引き出しは多いほうがいい。自分だけだとあまりに少ない。

それには、観察して真似ること、そして自ら研究すること。つまりこれは場数ですよね。回数が多ければ多いほど、刺激が多ければ多いほど、人は感化されます。

 

役者の皆さん。自分の動き、癖になっていませんか?マンネリしてるなって思ったことありませんか?

いろんな役をするなら猶更ですが、動きについても個性を出したいですよね。

 

4、音を聞く耳力・リズム力を鍛えたい

これも半の癖ですが、聞く力が極端に弱い

掛け合いのある台詞を言うときや、きっかけが音楽のココと言うとき、自分の役に入るだけではなく、「聞く力」がとても大切です。よくあるのが、相手が単語を間違えて言っているのに気づいていなくて、そのまま演技を続けていたり。←人の話を聞けない人の典型的(;^ω^) 直したいところの一つなんですけどね。

だからなのでしょうか、半はリズム感が致命的です。全くないわけではないと思いますが、手拍子をしていても、いつの間にかゲシュタルト崩壊的にテンポがズレていく人、それがまさしく半です。

分かっていることなので、鍛えるしかありません。人よりできないのは分かっているんで、じみちにコツコツが大事。

 

 

5、絡みが無いので自主練しやすい

6、個人練が芝居より恥ずかしくない 

 

先週、所用があって、レッスンに行けませんでした。週一のレッスンなので、丸2週間のブランクです。

休んでから後日、別に日にたまたま時間があって、小一時間ですが、個人練してみました。

 

うわぁ~~。ダンスやっている人、みた~~い。

↑いちようやっている人

 

良く街中や公園で、音楽を流しながして反射する窓ガラスとかを見ながら、ダンスレッスンする人いますよね。なんかミーハーな感じですが、ちょっとカッコいいなぁ~と思っていました。

返して、芝居の一人稽古は、結構異様です(^^;;;)

意味不明な言語(活舌の練習)を言い出したり、相手がいないのに、いると想定して一人喋り始めるわけです。

周りの人から見たら・・怖いよね・・。

最近、一人稽古はしていませんでしたが、昨年ちょっと公園で朝練しただけでも、人の目がイタカッタ・・・帽子を深く被り、みないでくれーーーーと、ずっと思っていました。

 

その点、ダンスは良い。

ダンスやってる人っぽい。(←やってる人)

イヤホンしているので、周りを気にしない。(←自己陶酔)

掛け合いがないので、いない相手のことを気にしなくていい。

 

と、気持ちいい汗をかいて家に戻ると、家人にこう言われました。

 

「やめてよっ夜中に。変な人みたい。捕まるよ~」

 

このアンチめっ!!!

 

 ※私のパートナーはいたって良識人なのです。芝居やってないときに出会ってるからね。心配も含めての発言なのは理解しています。そして世間的にはこの反応が普通なんだと・・・。何より、一番恥ずかしいなぁって思っているのは私ですしね。 

 

でも・・・、

 

めげませんけどねっ!!!!!!!!!!!!!!!

 

ま、表現するという事はそれだけ人目を引かないといけないわけで、近しい人がいきなり人目もはばからず奇声を発したり躍りだしたりする事を良しとしない人もいるでしょう。そりゃま、当たり前か・・・。

 

でも、そんなの気にしていられません!

お金ない。場所ない。人もない。それでもやりたいんです。

私のWANT TO DO は止まらないのです。

 

ここまで熱く書いていますが、現実的には、家人はそれがスタンダードなので私もスタンダードに聞き流し、次のことを考えていました。

 

エキストラとは言え、大きな舞台を経験できた。
舞台熱を冷めないままダンスのレッスンもできて、初めて2か月ですが体が軽くなっているのが分かる。
ダンスはディズニーでのオーディション動画撮影もあるし、しっかりやろう。
脱線でミニの別企画も思考中です。

うん、いい調子です。

いい調子・・・

 

だが、しかし!!
でも一つ物足りないことがあります。


あぁぁぁぁ~~
舞台で台詞を言いたい・・・・"(-""-)"

 

やればやるほど貪欲になる。芝居の恐ろしいところです。

ま、こればっかりは、しばらく先にかな・・・。
エキストラですが役者としていろいろできるのはうれしいです。でも、やはり舞台上で台詞を言えるのはとても気持ちがいい。

台詞を言うのは喉をつぶさないようにする別のケアや基礎練が必要で台詞を覚えないといけないし、それなにりにリスクが増えるんだけどね。

 

次にいつ役者として舞台に立つかはわかりませんが、その時にキラッと輝けるよう今は、磨きをかけることを心してやろうと思います。

 

↓練習用に購入した初めてのダンスシューズ

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ドキドキしながら船橋駅構内のシャポー船橋地下1階にチャコット船橋店で買ったよ。^^ 

シャポー船橋店|チャコット

ギャランティ

こんにちはdbd半です。

 

下田での出演は演者としても刺激的で心に湧き上がることばかりでした。

 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

 
ただ、それとは別に、役者としてと言うより、人間として嬉しかったことがあります。

対価です。

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(↑※上記はあくまでイメージです)


今回、表現者として初めてギャラを頂きました。

私はアマチュアで、どちらかと言えば出ていくお金のほうが多く、それが当たり前だと思っていました。


よく一般公募されているエキストラ募集にも参加したことはありません。(興味はあったんですけどね^^;)


今回、何より嬉しかったのは、このブログを通してdbdにお声をかけて頂き、dbdの私を信じて依頼してくれたことです。
そのうえで、お互いに良かったと言える形・・つまりwin-winでやり終え、ギャラを頂きました。

また別件で、以前にフライヤーの雑談をしたヤツが、今になって「これ」と幾分かを封筒に入れて渡してくれました。
ま、縁故なので、大目を見てのことだと思っていますが「してもらったことは、ちゃんと返す」と言葉を添えてくれました。

 

↓この記事の下のほうに書いたヤツです。 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 


ちょうどマネーを頂いたのは同時期でしたので、この二つが、表現者dbd半として初めてマネーを頂いた企画、という事になります。


心からあふれ出る表現したいって言う欲求を叶える喜びとは別に、いち表現者として世間様に評価してもらえた喜びを感じています。
私の表現活動で対価を払ってもいいと思ってもらえた。

そのことが、何より・・めちゃくちゃ嬉しいのです。


自信のない半が、ちょっぴり世間に認められた・・・って事です。

大げさかもしれませんが、半にとってお芝居は半身のようなものだから、その半身が他者に認めてもらえたというのは、喜ばずにはいられなことなのです。

フライヤーのヤツの前では、嬉しすぎて無意識で、文字通りピョンピョン飛び跳ねていました(笑)

 

*         *        *
半はアマチュアです。この世界で生きていこうなんて事は思っていません。
そこまでの覚悟は持ち合わせていないから。
でも、こうして評価してもらえるのは嬉しい。

と同時に今までにないプレッシャーも感じました。
今まで持っていた緊張感とは別物の、無言の圧です。

 

お金を頂くという事は、単純なことですが、簡単なことではありません。

頂いたら頂いた分だけ、いやそれ以上の事をしてなんぼです。


自分の未熟な部分は山ほど知っています。

でも、だからこそ人様に喜んでもらえることを、純粋に求めて行きたいと思いました。

 


それには目の前のお題を着実にやることです。
ひとつづつの積み重ねが、いずれ道にもなれば、山にもなるのは、経験済です。
避けてはダメなところです。
今回も、その積み重ねのうちの一つの山です。

 

お金にしろ遣り甲斐にしろ、もっと大きな山に登りたいのなら、近道はありません。
中には飛び級できる人もいるかもしれませんが、私には一歩ずつ着実に進む方が性分に合っています。


焦らなくてもいい。
自分が止まったと思わなければ、進みたい方向に体がきちんと向いていれば、遅くても早くてもゴールに向かっていくと信じています。