こんばんはdbd半です。
ある日の過ぎ去った半です。
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時々、すっごく視界が狭くなっている時があります。
心がキュッてなっていて、俯いて歩いていた感じ。
前を向いて歩いてなかった、と気づく瞬間です。
芝居は心を自由にしてくれる物です。
創作する自由、表現の自由がある物です。
常識の範囲ですが、一般的にアウトな事や自ら遠ざけていたことも、ここでは「表現」に昇華することで、出しても良いよと許された空間です。
そんな芝居が大好きで、
そんな稽古場が大好きです。
皆の自由さが広がっていく、羽を広げていくような時間です。
稽古場のことを考えているとワクワクします。
振り返っても先のことを考えていても。
なのに、
ぎゅ〜んって心が沈んでしまう時があります。
単純に気分が乗らない時。
めんどくさいなぁ〜とか思っちゃう時。
周りにビクビクしている時。
そりゃ人間だもの。
良い時だけでは無いよね?
何となく嫌だなって思っちゃうこともあるよね?
そんな時、顔を上げないように心をぎゅ〜んってなっています。些細なことが溜まったのか?大きなことがどーんとのしかかったのか?
歩く足元ばかりが見えて。
そんな時、このどんよりした気持ちの正体を半は知っています。
自分自身だよ
って。
心を許すのも許さないのも自分次第です。
やっても良いんだよ、が閉じられている時。
演劇の素晴らしいところは、自分を許せる空間であると言うこと。
私はそれに救われました。
そして今もこれからも求め続けると思います。
想像する心と
創作する力と
これから続く未来のために。
演劇は、まだ見ぬお客様に届けると言う使命があります。
演劇を携わるならアウトプットして、それをお客様に届ける、『昇華する』プロセスは外せません。
中には稽古場だけでも良いと言う考え方もありますが、やはりお客様に観てもらうと言う時間は一回り二回りも、役者や劇団を上に引き上げてくれます。
観てもらうというのは、表現者にとって何より大切なことなのです。
でも内面はオドオド系の半です。
まだ見えない世界(未来)というのは怖いものです。
思わぬバッシングを受けたら?
自分が間違っていたら?
誰かを傷つけてしまったら?
自信満々の時もあれば
そうではない時もあります。
私は一人ではへなちょこなのです。
私は、
自分のために頑張りきれない。
善意的な意味ではなく事実なのです。
営業職をしていた時、とても顕著に表れました。空回った末、やりたいと思っていた仕事がちっとも面白くなく、結果迷惑しかかけていませんでした。
誰かのためになることをしたい。分かりやすく役に立ちたい。それが根本的にあるのだと気づき転職を繰り返して、今の職場に落ち着きました。
私自身のスキルは、私自身より誰かのためと思っ方が、全てにおいてレベルアップします。
私自身が見つけた最大能力です。
今は皆がいます。
表現することから、届けるに昇華するということ。
私は今、私だけで動いているのでは無いと思います。
団員の皆、
時間を作ってくれる家族、
頑張れ!大丈夫!と励ましてくれる仲間、
これから後に続くであろう演劇人達、
そして、何よりまだ見ぬ会場にお越しのお客様に!!
俯いている場合じゃ無い。
私を阻む者は私しかいません。
動きづらく感じたなら
誰に向けられたわけではない
自分自身ではめた足かせです。
もっと自由になって良い!!
もっと走っても良い!!
もっと飛んでも良い!!
自分のためだけじゃない
あらゆることが、そうしろと言っているのです!!
少しずつ、少しずつ、顔を上げればいい。
本当は足かせなんてないんだ。
やるべきことは、もうわかっているはず!!
さ、顔をあげよう!!
※基本的に稽古場ではこの気持ちは持ちこみません。
稽古場の時間がどれだけ貴重な時間なのかは重々承知なので。こんな気持ちを稽古場のない日に調整できているのは、経験のおかげだと思います。
稽古場でのオンオフを切り替えつつ、日曜日のために平日は考えたり落ち込んだり悩んだり、そして新しい発見をしたりしています。
考えることも悩むことも次のステップのための通過儀礼。そうなってる時はなかなか気づかないんですけどね^_^;
顔を上げるって言葉では簡単でも、すぐにできることではないだ思います。
なので、半は時々、いつも触るスマフォを置いて電車やバスの人たちを見たり歩く人たちを見て、想像します。
この人はどこにいくのかな?
この人は慌てているのかな?
この人の仕草はカッコつけてるっぽいなって笑。
体と心は連動しています。体から自由になるのも、心から自由ななるのもいい。
誰かの心に私の記事が何かのヒントになってもらえれば。
私ももっと自由になりたいと思います。