こんにちわ、dbd半です。
最近、大人のほうが、相槌を疎かにしているような気がしています。
相槌・・・別にすべてにYESとして答えを求めているわけではありません。
ただ、私の話は理解できますか?どうですか?言葉足らずでしたか?ということを知りたいと思います。
芝居仲間、ダンスグループ、家族間、友人間、そのほかのグループ。
私も複数の仲間とラインでグループ機能を使い、話を共有しています。
ですが、若年層というより特に良い年した大人に見受けられるなと思うのは、いわゆる既読スルーと言うやつです。
ネットの普及で、様々なかかわりができるようになりました。
言いたくないことを言わなくても構わないと、基本的に良いと思っています。
でも、大人だったら、「返事ぐらいしろよ」「挨拶くらいしろよ」「分かったか、分かってないかくらい言えよ」そう思います。
子供のころ、教わりませんでしたか?
「挨拶は大きな声で」
「始めと終わりはきちんとしよう」
「お返事をしましょう」
子供の頃に教わることは、大人にとっては常識だと思いますが、私が間違っているのでしょうか?
芝居間にとどまらず、家族間やその他のグループでも、こういったことが気になったことが最近立て続けにありました。
なので、どこか・・・と言うのは控えます。
ま、要はずっと思っていたことの一つと言うわけです。
職場で教える側をしたことがある人なら、一度は思ったことがあるはずです。
”この人は私の話で理解してもらえているのだろうか?”
挨拶できない人は仕事はできない・・・なんて事は言いません。
できる人はできます。
ただ、自分がされて嫌なことはしない方がいい。
逆にしてもらって嬉しかったことはしていこう。そう思っています。
どうしても、気が向かないことは、私にもあります。無理に必ずしろと言うわけではありません。
しかし大人として生きる先輩として、どうあるべき姿なのか、どうしていきたいのかは、まず大人が見せなきゃいかんと思うのです。
芝居でも学校でもクラブでも、新人の人が入ったなら、まずは元からいた人を見習うのは、当然です。
そこに年齢的なものではなく、在中している人が先輩になります。
メールでも、対面でも同じ事です。
メールだからしなくてもいいとか、直接会ったのならちゃんとできるし、なんていうのは、傲慢さを感じます。
簡単な想像をしてみてください。
新しいドアを叩くとき、皆さんは緊張しませんか?
上手くやっていけるだろうか?どんな人がいるのだろうか?
そんな面持ちだったはずです。
初めての空間に入るのはとても勇気がいります。知り合いが一人二人いても同じです。
新しいところに自ら飛び込むときは、いつでも緊張と戸惑いがあります。
在中メンバーもそれは経験してきたはずです。
ドキドキのさなか、ドアを開けた瞬間。
「はじめまして○○です。よろしくお願いします」
シーーーーーンこれって、どういう心境でしょうか?
相手を知らないのは当然です。お互い様です。
だから挨拶しているんです。
なのに、既存のメンバーが誰も何も発しない。
既存メンバーからのウエルカムの姿勢が無いのと在るのとでは、その後の取り組みの差が大きく違います。
実は、こういったことを目の当たりにしたのは1度や2度ではありません。
所詮、メール、所詮ライン・・・かもしれませんが、団体としてそれでいいのでしょうか?
そもそも挨拶というのは、コミュニケーションをしやすくする第一口です。
電話の時に、なぜ「もしもし」というのか、知っていますか?
最初の音は聞き取りずらいんです。
たいていの場合、「もしもし」の「も」の音は切れてしまいます。
「もしもし」の後からなら、本題の話が聞き取りやすくなり、聞く姿勢になり話を受け入れられます。
一方、話す方も一度声を出して、自分の声のトーンや癖を耳で聞いて感じています。
次に出す本題の内容に話し方を調整して次の話を始められるんです。
つまり、双方にメリットがあるのが、言葉としては意味のない「もしもし」なんです。
挨拶できない。相槌打てない。イエスもノーもない。
そんな事が、当たり前で良いんでしょうか?
発信者の内容が明らかにチンプンカンプンで意味不明な内容なら、私もスルーします。
ですが、基本的に内容に同意しているとか同意していないとか、そんなのは二の次で、私の声は届いていますか?の確認作業は必要なことです。
相手やその内容を理解しようとする姿勢が在るの無いか?まずはそこからでは無いでしょうか?
* * *
なぜ、芝居ブログで、こんなに相槌や挨拶に語気を強めているか?というと、それは必ず芝居に影響するからです。
演出と役者、役者同士、役者とスタッフ、スタッフと演出。
あらゆるコミュニケーションが芝居を形成する礎です。
「もしもし」同様、初歩的なコミュニケーションがとれる間柄は次の本題に入りやすいのです。
次の本題に入りやすいという事は、決められた時間の中で、クオリティの高いところを狙えるという事です。打点の高いところで打てば、高得点をとれるチャンスは高まります。
良い団体、良い組織は内部のコミュニケーションが素晴らしいです。
一人が質問を投げれば、別の人が質問の意図を汲み取り、分かりやすく説明したりできます。一人が問題定義をすれば、別の人やさらに他の人が、アイディアを出したりできます。
それができる団体と、そうではないワンマンで進行する団体との差は、大きい。
私が営業経験をしていることが、ここまで強めに言える理由でもあります。
上手い営業マンは、必ず相手の相槌を引き出します。
相手がわかってないと思えば、応えやすい質問に変えたり、相手の興味のあるものに話を変えます。
そして、トークの要所要所で、「そうですね」と相互理解を確認し、それから「せーの」で次の段階の話をしていきます。
話の内容のイメージが共有されているから、次の話も分かりやすくなります
上手い営業トークは聞いているだけでも気持ちのいいものです。
対して、下手な営業マンは相手のことを気にしません。自分の知識のノウハウをただ津々と話し続けたり、自分の目線での話でしかない。買う気満々だったとしても、意気消沈、最終的に購入したとしても良い気持ちは残りません。
この違い、雲泥の差だと思いませんか?
上手い営業マンとの会話は、それだけで高揚しますし、勉強になります。
それだけ相槌と言うのは、とても重要なことなんです。
「お互いここまでの話は、理解していますね。(うん。)では次の話をしますね。」
「お互いここまでの話は、理解していますね。(うーん。)ではもう一度話しますね。」の大事な合図です。
と、ここまで言いましたがもちろん私たちは営業マンでもなければお客でもありません。
お客ではないんです。もう一度言いますね。お客ではありません。
相手を喜せようとすることはあっても、喜ばしてもらえる人はいません。
団体に所属したからと言って、サービスを提供してもらえるなんて思うのは大間違いです。
営業マンが相手なら、手を変え品を変え、お客さん(自分)を喜ばせようとします。そこにはマネーの対価があるからです。
芝居仲間の間でそんなことがあると思いますか?
そう、答えは、NOです。
誰も自分を楽しませてはくれません。自分が楽しもうとしなければ、誰もあなたを楽しませてくれる人はいないのです。
そんな「待ち」になった状態が続けば、いったいどうなるでしょうか?
楽しくないと思いませんか?
せっかく意思を持って参加した団体を、自分の中で有っても無くてもいい存在にしてしまって良いのでしょうか?
しつこいようですが、もう一度・・と言うか、たぶんこれからも何度も言うと思います。
「自分を楽しませるのは、あくまで自分です」
自分が楽しむために、どうするのかは自分次第です。
そして芝居は、お客さんがあってこそです。
お客さんを楽しませるのは私たちです。
さきほどの営業マンの話に戻りますが、自分の知識や価値観を押し付けるだけの人に誰も、相槌を打たないでしょう?
じゃ、どうすればお客さんが相槌を打ってくれるよう作品を作れるでしょう?
相槌をうつ、共感できる作品を作る、人を楽しませる作品。
そういうものではないでしょうか?
さらに具体的に、どうやって相槌ができるような作品が作れるでしょう?
分かりません。
私も、まだ模索中だから。
でもまずは自ら体感することではないでしょうか?そして、客観性を持つことです。
「こうしたら、こう見えるだろう?」
「こうしたら、こう思うだろう?」
「挨拶をして挨拶を交わせば、嬉しいだろう?」
「うなづいて、話が盛り上がれば、楽しくなるだろう?」
「挨拶をして、だれも返事を返さないのなら、どんな気持ちだろう?」
「話を聞いてほしいのに、無反応だったら、どうなるんだろう?」
冒頭で言ってしまいましたが「返事くらいしろ」「挨拶くらいできるでしょ?」そう相手に言うのは、簡単です。
簡単すぎるくらい簡単です。
でも、これには漏れなくプラスアルファ、「圧(あつ)」がかかります。
それは、今の私には余分な気がしているんです。
圧は、みんなの心を縮まらせます。
瞬間的なものかもしれませんが、それは根強く心に残るものです。
何より、強制してやらせるものなんて、アマチュアの演劇サークルには不要でしょう。
だから、私も書いてはいますが、悩んでいます。
悩んでいるからこそ、たかが相槌、たかが挨拶くらいで、こんなに長文を書いてしまうのでしょうね。(笑)
* * *
なので、ここまで読んでくださった方が、どのように受け取ってくださるかは自由です。
こんなことはあくまで、半の思うことであり、一般的にはもう古い考え方なのかもしれませんし。
既読してくださった方が、半の文章を読んでいただき、自らどうするかを選択してください。
ぶっちゃけ挨拶一つしようがしまいが死にはしません。
願わくば、ささやかな事象ではありますが、自身の後悔の残らない選択を。
私は先生でも無ければ、指導者でもありません。
ながながと書き綴っていますが、それは教えでも何でもない、ただ半が感じていることです。
いちプレイヤーとしてどうあるべきかを、いつも考えています。