「諦めが肝心」
大人になって好きになった言葉です。
同じ意図で「しゃーない」(「仕方がない」の関西弁)という単語も気に入っています。
仕方ない。
諦めろ。
一見ネガティブなイメージを連想してしまうのは私だけでしょうか?
少年漫画で育つお子達は今も多いと思いますが、その反対の言葉がよく出てくると思います。
「あきらめんじゃねーーーーー!!」
「まだおわってねーーーーーーーー!!」
的な。
今は、その解釈が少し変わったのです。
大人になって理不尽なことが沢山あります。
人事異動。
給与格差。
世間体。
醜聞。
地域性。
人間否定。
もろもろ。
組織と言うものがある限り、人と人とがコネクトする限り、必ず何かの障害は発生します。
その中でしか得られいない<イイ事>がある限り、人はコネクトするのを、やめられません。
そんな時、皆さんはどうしていますか?
重圧やプレッシャー、好奇な目、皆さんはどうやって対処しますか?
一昔、ふた昔前、若い若い半は、世の中が悪いのなら、ひっくり返せばいいんじゃね?くらい、それこそ少年漫画の主人公が言いそうな思考を持ち合わせていました。
もちろんそんな大それたことはしませんよ。(笑)
でも、理不尽な重圧があるのなら、自分は正しく周りが間違っているのなら、周りが変わるべきだ。
自分は悪くない。
悪いのは周りじゃないか。
そんな思いが強かったのです。
若干サイコパスの匂いがしそうですねww
いや、サイコパスまでいかずとも、一度は皆さんも思ったことがあるのではないでしょうか?
今はこう思うんです。
「諦めが肝心」
これは、本当の意味で諦めているわけではありません。
出口の無いほうに、思考を偏らせている場合じゃない。
自分のできることに向き合え。
「諦めが肝心」
「しゃぁない」
自分の中でそう変換される言葉になったからです。
世の中には理不尽がいっぱいです。
時には反旗を翻し、「物申す!」ことも必要だと思っていますし、飛んできた火の粉は払います。(←おほほ)
でも、それより大事なことがあるのなら、肝心要を忘れちゃいかんと思うのです。
先日アップした記事で私はこう書きました。
「舞台にトラブルやイレギュラーは付き物ですが、今回のような経験は他では無いものでした。
でも、そんな時に、誰があぁだこぅだ、なんでこうなったんだ・・ではなく、目の前に置かれた状況にただ応じる。
そんな姿が、カッコよく、潔く、羨ましく思えました。」
dbd-hans-collection101.hatenablog.com
これって、めちゃくちゃ大事だと思うんです。
あらゆる場面で、もう終わってしまったことや、決まったルールに対して、私たちは「うん」と言わざるを得ません。
不満や鬱憤もあります。
○○のせいだと言いたくなる時もあります。
ついでに罵り蔑み嘲りたい時もあります。(←ちょいs。冗談です)
でも、一呼吸おいてもう一度見渡した時、自分たちの本題がそれによって、どれだけ問題があることなのでしょうか?
自分のやるべき事は、そのせいで全くできないのでしょうか?
今、問題に対して糾弾してどうにかなる問題なのでしょうか?
半は思うのです。
出口のない思考に捕らわれるな!
考え方は、人それぞれです。
でも、考え方で人は(自分は)変われる。
舞台で円滑に公演をするには、どこかでこの思考が必要だと思っています。
誰かに期待をするのではなく、自分の役割をきちんとこなすこと。
どうすれば、自分が本来やりたいことに近づけるか。それに尽きると。
失礼な言い方になるかもしれませんが、どうしたら自分のやりたいことが出来るのかを考えるのに忙しくて、周りの環境や欠陥をあれこれと親切に言えるほどの時間はないと思っています。
せっかく人と絡み、いい作品を作りたいと思っているのなら猶更です。
真似したい部分を取り入れ、「面白い」「楽しい」をたくさんインプットしたいのです。
こう思えるようになって、半は幸せだと思います。
私、本当に「人や作品の良いところ」が、たくさん見えるんです。
特に、お若い方は、袋小路の思考に行き詰ることが多いのでは無いでしょうか?
もし、私の子供が成長してこういった悩みを抱える事があるのなら、今の事を伝えてやりたいと思っています。
今はこんなことを言われてもチンプンカンプンに感じるかもしれない。
でも、いつか自分の目標ができたとき、ふと思い出してもらえたらなぁと思います。
自身のやりたい事があるのなら、袋小路の思考に閉じ込もって・・・・・る場合じゃない!!って。
とある方が、最近「本当に(事実として)、人はなりたいようにしかならない」と仰っていて、半もものすごく共感したので、その影響かな。割とまじめな思考の話でした^^。