dbd-hans-collection101のブログ

さぁ、世界をつくろう。 人生には刺激が必要だ。 dbd-hans-collection略してdbdの半のブログ。ほぼ一人で立案から創作完了まで行う芝居何でも屋。そんな芝居人、半が感じたアレコレを書き綴って参ります。

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こんばんわdbd 半です。

 

今回の帰省は昼間の新幹線で16時には家に着き、荷物の片づけなどやっつけて、夕飯を(例の551の豚まん)食し、一息つきました。

 ※前回の帰省ブログの記事

 ↓

 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

 

今回は夏の帰省、つまりお盆だった為、いろいろ思うことが在りました。

 

 

≪命≫についてです。

 

 

いきなりの内容で驚くかと思いますが、生と死は延長線上にあるもので、切っても切れるものではありません。

このdbdの芝居ブログで何を言い出すんだとお思いでしょうが、しばしお付き合いくださいませ。

 

日本の風習の素晴らしくもおかしなところで、意味合いが分からなくなっても風習だけは連綿と受け継がれていくことが有ります。

 

お盆について、子供でも外国の方でも「お盆て何?なんで墓参りするの?」と聞かれたら皆様なんとお答えになりますか?

 

私は正直なところ、上手く説明できません。

 

 

なぜ8月の15日あたりなのか、日本では仏教が主流ですが色んな宗派があるのになぜみな統一でこの時期なのか、なぜ精霊馬がナスときゅうなのか(半は関東に来てから初めて知りましたが、ナスときゅうりに棒を刺した精霊馬というのがあるんですね。亡くなられた方が、それに乗ってあの世とこの世の行き帰りに使う乗り物だそうです。初めて見たとき、お子さんが食べ物で遊んだのかな?と本気で思っていました)

何より墓参りすることで何を思えばいいのか、さっぱりわかりません。

 

いえいえ、熱心な方を否定しているわけではないのですよ。むしろきちんとされている方は忙しい合間を縫って行動に移されていて、本当に素晴らしいと思います。

私自身もどちらかと言うと信仰心を持っている方だと思いますし、父母は特に先祖を大事にする人で今でも毎朝毎晩手を合わせる事を怠らず今年は特に猛暑だったので毎日墓の様子を見に行くほど、熱心な墓守です。

 

ここで問題なのは『無知である』という事です。

 

父母は、自分たちが熱心な信仰心を持っているにもかかわらず、私が納得する回答をもらえませんでした。

 

こうするものだ。当たり前だ。先祖が喜ぶ。

 

うーん。そうなんだろうけど、その意味が知りたいんだけどね〜。なんか釈然としない(*´ー`*)

そういう訳で、私は信仰や宗教的観点について、曖昧なイメージしか持てないまま今に至ります。

 

 

 

この夏、私はずっと考えていました。

 

 

「死んだら故人の魂(?)はどこにいくんだろう」

中二病的な発想でしょうか?

でも、ちょっと考えて見ませんか?

 

天国

お空

遠い国

地獄

 

 

結局のところ、死ななきゃ答えはわかりません。

 

 

そして、生まれ変わり、つまり転生という死後の世界の仕組みもあると言います。今生の行いは前世の行いに、今生の行いは来世につながると。

もし転生という仕組みが死後にあるというのなら、転生してしまえば帰ってくる命なんてないわけです。

 

なのに、ご先祖様をしのび、個人をしのび、墓参りをして手を合わせるのです。

1世代くらいならまだ順番待ちしているかもしれませんが、随分遠くのご先祖様ならそろそろ次の命に変わっている可能性は大です。いや、むしろ自分の番のことを考えると早めに生まれ変わってて欲しいですよね〜。

 

で、お盆の時期手を合わせてるついでに、そこで「見守ってくださいね」と亡くなられた方にお仕事を一方的にお願いしてしまうのです。

 

仮にもし、転生して次の命になっているのなら、前世の子孫の習わしに付き合わせるのも申し訳ないなぁと思ったりするわけです。

 

 

私はきちんとした各宗教を学んだわけではないので、そんなことを思ってしまうのかもしれません。きちんとした答えを心にお持ちの方は、何言ってんだと鼻で笑ってくださいね。

 

 

ただ、私は命について考えていました。

 

 

いや、dbdの中でずっと考えていたことかもしれません。

「生きる」という事は「死」を意識することです。

「死」という期限を意識するからこそ、「今、生きていること」を意識するのです。

だから、私は「今、できる事をやろう」「やりたい事をやってみよう」と思うのです。

 

 

私の父が80だったことや、うちの愛猫の寿命を思う事、このお盆の時期で亡くなった方や先祖などをしのぶこと、そして、これから残る次の世代の事(半の世代は今、子育て真っ最中の方が多い)が、重なりました。

 

 

 

「今、ちょっと変だな」と思うことは、数年後十数年後には「結構、普通」になる事は、はたくさんあります。

女性の共働きや産休システム、携帯電話で写真を撮れる機能、セルフレジの導入、外国人観光人の増加、ゴミの選別、地域差やまだ発展途上の物も有りますが挙げると様々な事を思い浮かびますよね。

 

とするとですよ、もしかしたら貴方が自ら発した案件は、今は周りから反対されたり、奇異な目で見られたりするかもしれません。

でも、長い目で見れば「今この瞬間だけ」の事なのかもしれないのです。

なのに、今周りの目を気にして、自分らしさを後回しにしても良いものだろうか?

そんな事を思うんです。

 

もちろん最初はちょっと勇気のいる事だと思うんです。でも、自分の気持ちに素直にならなければ、「生きてる」って本当の意味には、ならないんじゃないかなって、思えてきました。

誰かのためでも、誰かのせいでもなくて、自分がやりたい事としての行動です。

 

こうするものだ。当たり前だ。

今まではそうだった。それはわかった。

で、その次は?

 

「やっとけば良かった」って後悔するくらいなら、やればいい。

でも「やらなきゃ良かった」って、後悔するかもしれません。

 

どのみち、後悔というネガティブ菌は、どこにだって潜んでいるんです。

 

なら、自分の心の軸に一番近いところの話を聞いて、「どうしたいか」を根気よく聞くことなんだと思います。

 

 

 

私は私の芝居をしたい。

 

 

 

dbdの場合、総合芸術をうたっているので、芝居の括りがかなり広いのですが、それでも己の好みはハッキリしているわけです。

 

さらに私にできることは、かなり限られています。

自分の完璧だけを求めて一作品にするのは相当な環境と覚悟が必要です。100%出来上がった物を提示すれば、満足できるのかと言うと、案外そうではないのです。

色んな中に私の好みがあれば、「それで良いんじゃないか」今私はそう思えてきているんです。

 

 

私が後世に残せることなんて、限られていることでしょう。

インフルエンサー(影響を与える人)になりたいと思ってなれる人なんて、そう大したことはありません。大きな影響を与える人は、大業を成し得る通過点がそれだっただけです。

 

でも、もしこのブログや半の作品が、ほんのちょっぴりでも誰かの心に残るのなら、私が死んでも私の小さな小さな欠片として誰かに残るんだと思います。

 

誰かの一歩でも半歩でもいい。

誰かの背中を押すことができるなら、

応援してるよって、エールを送れるのなら、それが半流の芝居になることでしょう。

 

私自身も一歩前に進めば半歩下がるの繰り返しです。もしかしたら五歩くらい後退しているかもしれませんσ^_^;

 

でも、だからこそ、私カラーが出せるってもんです。

 

 

 

迷いは無駄じゃない。

 

 

 

次の作品に顔を上げて取りかかれそうです。