dbd-hans-collection101のブログ

さぁ、世界をつくろう。 人生には刺激が必要だ。 dbd-hans-collection略してdbdの半のブログ。ほぼ一人で立案から創作完了まで行う芝居何でも屋。そんな芝居人、半が感じたアレコレを書き綴って参ります。

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原作・原案 舞台の二次創作について

こんにちわdbd半です。

 

 

巷でちょっとにぎわっていますよね↓↓

映画「カメラを止めるな!」について舞台作品との類似点めぐり「原作者」が告発

「カメラを止めるな!」舞台作品との類似点めぐり「原作者」が告発 - ライブドアニュース

 

今回の記事は二次創作についてです。

 

 

著作権に関して近年はとてもシビアになっていますので、このニュースは表現者の末端としてでも、気になる部分です。
さらに今回は原作が劇団の作品だったということで、半なりに思うことを述べたいと思います。


【概要】

予算300万という破格の低予算映画ですが、タレントの方達の口コミを発端に爆発的人気に。

 

今では「製作費は300万円といわれているが、興行収入10億円突破は確実」(映画業界関係者)

だそうです。

 

そんな波に乗っている最中に現れたのがこの原作・原案問題。

うがった見方をすれば、破格の高収入になった作品に少しでもあやかろうと訴訟を起こして著作権料や名誉棄損によるお金の回収狙いなんじゃねーの。っていう感じ。

ま、お金はあるに越したことはありませんからね。


でも、このニュースの中で私はこの一文が気になりました。

 

「僕の舞台を原案というけど、僕は案を出したわけじゃなく、実際に舞台を作り上げて、何度も公演もして、上田監督はそれを観ているわけです。

 その脚本をもとに作られた『カメラを止めるな!』が、さも完全オリジナル脚本のように絶賛されているのは、クリエイターとして到底承服しかねますね。多くの元劇団員からも同じ声が上がっています。僕たちが納得して、映画が作られたと思われているのは心外です」


クリエイターとして到底承服しかねますね。


クリエイターとしてです。

 

最終的に金銭的な解決になるのは大いに予想されますが、この一言には原作者側の意地というかポリシーというか、そういったことが垣間見えました。

 

さらに記事を読み込んでいくと、原案としてクレジット表記をしましたとご報告の電話はあったそうです。
では、原案としてクレジット表記されていれば、作者の意向に反しても二次作品として公に作成してもよいのか?という点です。

 

 

【原作と原案の違い】

ここで出てくるのが原作と原案の違い。

半も少し調べてみましたが、きちんとした定義があるわけではなく、原作として意図から外れている場合に往々にして使用されているようでした。

 映像作品における、原案と原作の違い|shachi|note


とある記事では、原作・原案問題ではこんな事例もあったんですね。

テレビ局も抱える著作権トラブル、"原作"と"原案"の違いは?|LITERA/リテラ

土屋アンナの舞台降板騒動でのこと。

今回の騒動では、舞台の原作者である濱田朝美は"舞台化を許諾していない"と述べているが、舞台製作者側は"原案にすぎない"と主張。この問題は『ミヤネ屋』(読売テレビ系)や『ひるおび!』(TBS系)などのワイドショーでも大きく取り上げられ、著作権が発生する原作とは違い、「原案の場合は、作者の許諾やギャランティは必ずしも発生しない」「原案には著作権は存在しない」という説を紹介していた。(上記サイトから抜粋)

 

おいおい、そりゃひどくないですか?
原作者が制作に反対したら「原案」になって、「原案」だったらお金は出さなくて良いって=つまり原案扱いなってしまった作品はもう自分の作品ではない扱い、とも受け取れる所作になった。元ネタはあくまで原作者なのに。原作者がはっきりNO!って言っているのに・・・。

 

ちなみに事の真相は↓↓土屋アンナさんが降板はこんな事情だったんですね。

「土屋さんは全くの無実」舞台中止の原作者・濱田朝美氏が製作側を完全否定 | ORICON NEWS

 

 

 

で、もし、こんなことがまかり通るのなら、もう何でもありだよね。

 

 

【誰だって】


面白いものをみんなに知ってほしいし、自分の神髄とする業界で自分の力が発揮できると思うのなら、自分の知ってる世界で勝負してみたいって思うよね。
でも、こう言った作品の業界ミックスは、原作者と次に手掛けるメインパーソンが互いにwin-winになるのが、理想だし本来の狙いどころなはず。

 

もし作者が亡くなられて何年も経っている作品や、だれが作ったか分かるほど有名な作品なら、アンソロジー(アンソロジーとは - はてなキーワード)ですね、って最初から解釈もできるし、制作者は面白いものを知っている博識でセンスの良い人物だと思えて、作品自体も楽しめると思う。

 


でも、これが全て自分のオリジナル作品だというのはいささか乱暴すぎやしないだろうか。
それがいくら「原案」と残されたところで、いろいろな部分で納得できないと思うのは自然なことだ。
お金よりそれ以上に大きなものを奪われた気分だ。

 

 

【その他の著作権に関わる騒動】


先日あった芸人のひょっこりはんのBGM著作権のニュースを思い出させる。


BGMの制作者はmusmusさんという私も使わせてもらったことがあるフリー音楽サイトの運営者さんだ。


著作権フリーで、素敵な音楽を無料で何度でも使用できる。
半もいろいろフリーサイトは調べているが、musmusさんは特に使用しやすい音楽屋さんだ。


他サイトでは登録が面倒だったり、使用依頼が必要だったり、サイトが見にくかったり、一筋縄ではないことも多い。
それこそ当たり前と思われかもしれないが、乗りに乗っているときに、この手の手順を毎回しないといけないのは写真でも音楽でも素材を探すのはやはり手間なのだ。


その中でもmusumusuさんはとても使いやすい音楽のレパートリーをお持ちで、BGMを探すときには必ず訪れるサイトの一つだ。

お金のないクリエイターにとってこんないいサイトはない。

 

「二次配布は禁止します」

 

そんなありがたいフリーサイトに必ずあるのが「二次配布禁止」の文言だ。


つまり、自分が作ったものとして音楽を売るのを禁止している。

そりゃ当たり前だよね。

 

これはクリエイターとしての最後の砦でもあり、最高のプライドではなかろうか。

 

お金も取らない。でも自分の曲を聴いてほしい。そこでまた生まれる人とのつながり。その全ては自分が作ったものから成り立っている。


ひょっこりはんが考えたのか、事務所の提案なのかはわからないが、このBGMをジャスラックに登録しようとまで話がなっていたそうなのだから、制作者は声を上げずにはいられないだろう。

 

というか、もし声を上げなかったら自らの楽曲なのに、著作権料をとらえていたかもしれないと思うとぞっとする。

ひょっこりはんの案件はその後、話し合いがきちんとされて解決されたようだ。musumusuさん大人っ!

 


と、今回の話にもどそう。

つまり、有名どころの話を原案としての使用ならまだ「見逃してよ」と言いたい気持ちも確かに分かる。が、今回のような話は別だ。

 

権力も組織力もある訳ではない(本当はあるかもしれないが)創作活動をされている方が、自分と向き合って試行錯誤を重ねて、それこそ著作権料を払って作品作りをしているかもしれないのだ。

お互い協力体制、もしくは個人や作品をリスペクトする行動は必須条件なはず。

 

今も現役で活動されている方の原作を「原案」扱いにして、しかも事後報告にして、オリジナルですと言い切るのは、いかがなものかと言わざるを得ない。


お金云々もあるが、クリエイターとしての本質をお持ちなら、やることは明白だろう。


映画の仕事は私にはわからない範疇だが、他の業界のアーティスト同様、高い志があると思う。作品への愛も、最初の舞台を見た時の感動も、きっと内にはあるはずだ。

いい作品なら、なおさら早期解決してほしいと思う。

 

 


【最後に 舞台の可能性について】

最近では、賛否両論あるが漫画や小説を原作にしたドラマ化・アニメ化がかなり一般的になっている。
アニメでは2.5次元ミュージカルのように、見目麗しい俳優が舞台で汗を光らせている作品も増えている。

 

今回のことで、一つ注目していただきたいのは、舞台が原作ということだ。

従来にあったのは、漫画、アニメ、小説の舞台化だった。

誰かが、「漫画は原作力がある」と、書いていたのが印象深い。面白い漫画はもう漫画業界の枠には収まりきらないほど可能性がある。

そして、それは舞台(芝居、演劇)にも言えることなのではないだろうか。

 

漫画→舞台  ではなくて、

舞台→映画   だったのだ。

 

思えば舞台の作品は、映画と相性が良い。

昨年見たおぱんぽん創造館さんの作品も映画を見ているようだったし、映画化されてもきちんと見られる作品だったと、コメンテーター?の方もおっしゃっていた。私も同感だった。

 

 

私が好きだった惑星ピスタチオの作品よ、いつも映画のテイストを感じた。見終わった爽快感が映画と酷似していた。さらに生で観る舞台は鳥肌ものだった。

 

小説→舞台

アニメ→舞台

 

から、

 

舞台→映画

舞台→アニメ

舞台→ドラマ

 

も十分に楽しめると思う。


そもそも舞台に携わる人はマルチな、もしくは特化した才能をお持ちの方が多い。
むしろ今思えば、舞台の作品がどうしてもっと他の作品に流用されないのかと不思議なくらい、面白い発想・構成・発案・キャラクター・設定がある。

 

まぁ、はっきり言って埋もれているだけだなんだろうな。

 

 

今の私たちはテレビドラマに育ちドラマに楽しませてもらってきた。

演技や芝居を観る事がそれほど大変ではなくなり、それに比べ舞台に足を運ぶというのはなんて億劫な事だろう。

 

だがしかし、舞台ではさらにとんでもないことやあり得ないことが、有り!として存在できるのだ。

映画化、ドラマ化しても、引けを取らない原作としての力量をふんだんに持ち合わせている作品は沢山ある。

もし、舞台、映画、ドラマ、アニメ、漫画、こんな横つながりの最強ミックスエンターテイメントで、さらに人々が舞台に関心を抱き、多くの人が小屋まで足を運んでくれるのなら、これ幸いだ。

 

 

 

 

 

なんだか、急に熱く語り始めてしまった。。。

 

 

 

 

( ^ω^ )

 

半は、ヘーゲルの螺旋的発展(ヘーゲルのらせん的発展を知れば未来予知ができる〜前編〜)のように、これから芝居業界(舞台業界)は俄かに湧いてくるんじゃないかと、半はひそかにそうした近い将来を想像してほくそ笑んでいます。

 

 

 

【最後の最後に】

今回の内容はニュースやサイトをベースに書かせていただいています。

皆さまご存知の通り、現時点のニュースが真実とは限りません。真実は本人に達にしかわからないから。

 

あくまで一個人の感想だと言うことで、お心に留めていただけたらと思いますm(_ _)m

 

 

 

【最後の最後の最後に】

 

と、言っている間にもう一度ニュース見たら、新たなコメントが出ていますね!

 (劇団PEACE「GHOST IN THE BOX!」(作:A 演出:和田亮一)の和田さんのコメント記事です。↓↓)

映画「カメラを止めるな!」について|rookey|note

今日の最初のニュース一報から書き始めているので、タイムラグによる情報の誤差、ご理解くださいませ。m(__)m

少し語気が強くなってしまった事、失礼致します。

ただ、原作者の方の気持ちもわかるなぁと言うのが、やはり半の考えです。作品を子供に例えるのなら、今後の権利も無い手が出せないとなると意図せずに里子に出すようなものです。せめて、自分の子供だと認めて欲しい。原作者の方にとって、この作品はそれくらい宝物だったのだろうと伺えます。

だからこそ早く解決してもらいたいと言う気持ちです。


ただ一つ、加えて書くのなら、それただけの原作力がある物を作れたのなら、別の作品を手がけた時には、さらに飛躍する物を作れる方なのだろうと思います。並大抵の事ではありませんが、ゼロに近いところから作り上げた人の方が絶対的に原作力はあると思うからです。
 

人間どうしなので、譲れない事や社会事情いろいろありますよね。

どう受け取るかは、皆様のお考え次第だと思います。^_^

こんばんわdbd 半です。

 

今回の帰省は昼間の新幹線で16時には家に着き、荷物の片づけなどやっつけて、夕飯を(例の551の豚まん)食し、一息つきました。

 ※前回の帰省ブログの記事

 ↓

 

dbd-hans-collection101.hatenablog.com

 

 

今回は夏の帰省、つまりお盆だった為、いろいろ思うことが在りました。

 

 

≪命≫についてです。

 

 

いきなりの内容で驚くかと思いますが、生と死は延長線上にあるもので、切っても切れるものではありません。

このdbdの芝居ブログで何を言い出すんだとお思いでしょうが、しばしお付き合いくださいませ。

 

日本の風習の素晴らしくもおかしなところで、意味合いが分からなくなっても風習だけは連綿と受け継がれていくことが有ります。

 

お盆について、子供でも外国の方でも「お盆て何?なんで墓参りするの?」と聞かれたら皆様なんとお答えになりますか?

 

私は正直なところ、上手く説明できません。

 

 

なぜ8月の15日あたりなのか、日本では仏教が主流ですが色んな宗派があるのになぜみな統一でこの時期なのか、なぜ精霊馬がナスときゅうなのか(半は関東に来てから初めて知りましたが、ナスときゅうりに棒を刺した精霊馬というのがあるんですね。亡くなられた方が、それに乗ってあの世とこの世の行き帰りに使う乗り物だそうです。初めて見たとき、お子さんが食べ物で遊んだのかな?と本気で思っていました)

何より墓参りすることで何を思えばいいのか、さっぱりわかりません。

 

いえいえ、熱心な方を否定しているわけではないのですよ。むしろきちんとされている方は忙しい合間を縫って行動に移されていて、本当に素晴らしいと思います。

私自身もどちらかと言うと信仰心を持っている方だと思いますし、父母は特に先祖を大事にする人で今でも毎朝毎晩手を合わせる事を怠らず今年は特に猛暑だったので毎日墓の様子を見に行くほど、熱心な墓守です。

 

ここで問題なのは『無知である』という事です。

 

父母は、自分たちが熱心な信仰心を持っているにもかかわらず、私が納得する回答をもらえませんでした。

 

こうするものだ。当たり前だ。先祖が喜ぶ。

 

うーん。そうなんだろうけど、その意味が知りたいんだけどね〜。なんか釈然としない(*´ー`*)

そういう訳で、私は信仰や宗教的観点について、曖昧なイメージしか持てないまま今に至ります。

 

 

 

この夏、私はずっと考えていました。

 

 

「死んだら故人の魂(?)はどこにいくんだろう」

中二病的な発想でしょうか?

でも、ちょっと考えて見ませんか?

 

天国

お空

遠い国

地獄

 

 

結局のところ、死ななきゃ答えはわかりません。

 

 

そして、生まれ変わり、つまり転生という死後の世界の仕組みもあると言います。今生の行いは前世の行いに、今生の行いは来世につながると。

もし転生という仕組みが死後にあるというのなら、転生してしまえば帰ってくる命なんてないわけです。

 

なのに、ご先祖様をしのび、個人をしのび、墓参りをして手を合わせるのです。

1世代くらいならまだ順番待ちしているかもしれませんが、随分遠くのご先祖様ならそろそろ次の命に変わっている可能性は大です。いや、むしろ自分の番のことを考えると早めに生まれ変わってて欲しいですよね〜。

 

で、お盆の時期手を合わせてるついでに、そこで「見守ってくださいね」と亡くなられた方にお仕事を一方的にお願いしてしまうのです。

 

仮にもし、転生して次の命になっているのなら、前世の子孫の習わしに付き合わせるのも申し訳ないなぁと思ったりするわけです。

 

 

私はきちんとした各宗教を学んだわけではないので、そんなことを思ってしまうのかもしれません。きちんとした答えを心にお持ちの方は、何言ってんだと鼻で笑ってくださいね。

 

 

ただ、私は命について考えていました。

 

 

いや、dbdの中でずっと考えていたことかもしれません。

「生きる」という事は「死」を意識することです。

「死」という期限を意識するからこそ、「今、生きていること」を意識するのです。

だから、私は「今、できる事をやろう」「やりたい事をやってみよう」と思うのです。

 

 

私の父が80だったことや、うちの愛猫の寿命を思う事、このお盆の時期で亡くなった方や先祖などをしのぶこと、そして、これから残る次の世代の事(半の世代は今、子育て真っ最中の方が多い)が、重なりました。

 

 

 

「今、ちょっと変だな」と思うことは、数年後十数年後には「結構、普通」になる事は、はたくさんあります。

女性の共働きや産休システム、携帯電話で写真を撮れる機能、セルフレジの導入、外国人観光人の増加、ゴミの選別、地域差やまだ発展途上の物も有りますが挙げると様々な事を思い浮かびますよね。

 

とするとですよ、もしかしたら貴方が自ら発した案件は、今は周りから反対されたり、奇異な目で見られたりするかもしれません。

でも、長い目で見れば「今この瞬間だけ」の事なのかもしれないのです。

なのに、今周りの目を気にして、自分らしさを後回しにしても良いものだろうか?

そんな事を思うんです。

 

もちろん最初はちょっと勇気のいる事だと思うんです。でも、自分の気持ちに素直にならなければ、「生きてる」って本当の意味には、ならないんじゃないかなって、思えてきました。

誰かのためでも、誰かのせいでもなくて、自分がやりたい事としての行動です。

 

こうするものだ。当たり前だ。

今まではそうだった。それはわかった。

で、その次は?

 

「やっとけば良かった」って後悔するくらいなら、やればいい。

でも「やらなきゃ良かった」って、後悔するかもしれません。

 

どのみち、後悔というネガティブ菌は、どこにだって潜んでいるんです。

 

なら、自分の心の軸に一番近いところの話を聞いて、「どうしたいか」を根気よく聞くことなんだと思います。

 

 

 

私は私の芝居をしたい。

 

 

 

dbdの場合、総合芸術をうたっているので、芝居の括りがかなり広いのですが、それでも己の好みはハッキリしているわけです。

 

さらに私にできることは、かなり限られています。

自分の完璧だけを求めて一作品にするのは相当な環境と覚悟が必要です。100%出来上がった物を提示すれば、満足できるのかと言うと、案外そうではないのです。

色んな中に私の好みがあれば、「それで良いんじゃないか」今私はそう思えてきているんです。

 

 

私が後世に残せることなんて、限られていることでしょう。

インフルエンサー(影響を与える人)になりたいと思ってなれる人なんて、そう大したことはありません。大きな影響を与える人は、大業を成し得る通過点がそれだっただけです。

 

でも、もしこのブログや半の作品が、ほんのちょっぴりでも誰かの心に残るのなら、私が死んでも私の小さな小さな欠片として誰かに残るんだと思います。

 

誰かの一歩でも半歩でもいい。

誰かの背中を押すことができるなら、

応援してるよって、エールを送れるのなら、それが半流の芝居になることでしょう。

 

私自身も一歩前に進めば半歩下がるの繰り返しです。もしかしたら五歩くらい後退しているかもしれませんσ^_^;

 

でも、だからこそ、私カラーが出せるってもんです。

 

 

 

迷いは無駄じゃない。

 

 

 

次の作品に顔を上げて取りかかれそうです。

 

 

 

 

 

大阪の下町と半分野良のむさ

こんにちはdbd 半です。

皆さまは夏休みはもう終わりましたか?

半は昨日有給を取ったので、先ほどまで大阪におりましたが、ただ今新幹線の中でございます。

 

家に帰ってからのお楽しみで思わず買ってしまいました。

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おいしいですよね^ ^551の豚まん

 

大阪に帰ると、たこ焼き、お好み焼き、551の豚まん、うどん、マネケンのワッフル。これらは制覇したくなります。

(マネケンのワッフルは天王寺駅だと出来立てなのでほこほこしながら食べられるんですよね〜おススメです^ ^)

 

残念ながらお好み焼きは食べ逃しましたが、今年の帰省も充分堪能してまいりました。

 

そして意外な発見と言うか、灯台下暗し的な物も発見しました。

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私の実家は大阪の下町。正直物騒な人(道端で喚いてる人とか)も普通にいて、大阪市内ですが都会と言うのとまた少し違う味わいのある町です。

中でもお風呂屋さんは、昔ながらの銭湯屋さんを残しているところが幾つもあり、実家に帰った時のお楽しみの一つが、「お風呂屋さんに行くこと」です。

 

私のすぐ歩いて行ける近所にも3件ほどありますが、姉の勧めで少し離れた銭湯屋さんに行きました。

 

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有形文化財・・?

 

こんなお風呂屋さんがあったんだ。。。

 

知らなかった。

近くは何度も通ったことのある場所なのに、ほんの少し横道に入ったところにある、こんな立派なお風呂屋さんがあるなんて知りませんでした。

 

銭湯には珍しく中に入ると、こんな中庭まで。

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ほほー。趣があります。

なんかこの本の並びも良いですよねー。

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これ以上はお見せできませんが、青と赤の丸い持ち手の蛇口から水とお湯が出る個別の洗面台や、ちっちゃい時はぴったりだったコの字型の緑色のシンプルな椅子だったり。

 

なかなかの乙なお風呂やさんでした。

 

 

地元に帰ると、止まった記憶と今の記憶とが混在します。昔ながらの家と新しい家が混ざった住宅地のように、チグハグ差が妙なバランスで存在し、気持ち悪さ心地よさが両方沸き立ちます。

 

でも、これこそが実家に帰るって事なんだろうなと思います。

気持ち悪かろうが心地よかろうが、親でも兄弟でも友人でも、お互い顔を合わせて会える。それだけで、きっと意味があるんです。

 

 

 

千葉に帰れば、月曜日からまたフルで仕事です。関西の気質が私には、性に合っていますが、関東には関東の良さがあります。

 

私がこうして長めの休暇を取れるのも関東で仕事ができているからだし、芝居をやれるのも周りの方の理解があるからです。

 

 

 

「まだまだやりたいことはある」

 

 

 

前回のdbd の挟み込み用チラシのキャッチコピーですが、今回またこのキャッチコピーを使おうと思いました。

前回のチラシも猫ちゃんを使わせてもらいましたが、次に作るチラシのベースは我が愛猫にしようと思います。

 

 

次回帰省するのは来年。

 

私の実家の愛猫は高齢のため、次回会えるかどうかは、分かりません。半分野良のむさし(愛猫♀の名前)も、それが分かってか、今年私に猫撫で声を出してくれたのかもしれません。

 

むさは、高齢で毛も抜けまくりだし、半分野良猫なのでノミやダニもいます。

もともと野良猫だったこの子はご飯だけを食べにきて、そのうち家に住み着きました。

住み着いたと言っても、外でのバトルは良くしますし、病気をして帰ってきた事も有りました。

野生の本能はこの子の中に、ちゃんとあるのです。

だから、ご飯はもらいに来るものの人に完全に懐いているわけでは有りません。

 

甘えるのは好きだけど抱かれるのは嫌い。

もう十数年行きているのでかなりのおばあちゃん猫の癖に、つい去年までほかの野良猫とバトルして耳を切られるくらいのお転婆

でも、私の声には尻尾や耳で必ず返事をして、気まぐれにしゃがれ声でニャーニャー喚きます。

むさの焦げ茶の縞模様は、本当によく見ないと見えません。だからこの子のシマシマは私たちくらいしか知らないんです。

 

そんなむさですが、

 

むさはとても、綺麗でした。

 

 

あるがままの姿は、dbd のイメージにぴったりです。

 

 

「半分野良猫ですが何か?」

 

 

「家猫だって野良猫だっていいじゃない。」

 

 

「自分の思う事をやってて何が悪いの?」

 

 

 

そんな声が聞こえてきそうw

 

ただ、写真だと黒くなりすぎちゃうんだよな〜。うまくできるかな。

むさにまた来年会えるように、しっかり働いて、芝居もやろーっと^ ^

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ゴールデンウィーク帰省

今晩は。

dbd 半です。

 

実は今帰省中です。

関西の友人に会ったり、ファミリーと出かけたり、お休みを満喫中です。

大阪に帰るのは去年のゴールデンウィークぶりです。

 

我がファミリー ムサシ(かなりのお婆ちゃん)にも無事に会えました。

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もう帰ってきて今日で丸4日になります。

変わった町並みと、変わらぬ人々に驚いています。

一番驚いたのが親類の、父の姉に挨拶回りをしたのですが、後から聴くと、おん年90歳。

あの肌艶はどうやったら慣れるんだと心底驚きました。と言う、私の父ももう80歳。

こんな事を言うのはなんですが、80歳90歳でもかなり元気です。私の勝手な想像だとそれくらいの年齢であれば病院暮らしや生活不自由なのが当たり前だと思っていたのに、目の前にすると驚くばかりです。

もちろん嬉しい驚きなんですけどね。

さすが、「あと10年は大丈夫や」と10年経っても繰り返していただけの事はあります。

 

 

この四日間は、色んなところを行きました。

1日目は昔行きつけにしていた美容院

2日目は後輩先輩のファミリーとヒラパー

3日目は去年籍を入れすでにおめでたになった友人と地元を徘徊

4日目は姉貴と映画

明日はもう一人の姉家族とスパワールドに行く予定で、

明後日には高校の同級生に会いに行きます。

 

私がここ大阪の下町を離れて9年。

時間の流れが早くなりました。

町並みも変わり、新しいものが増えていました。

あべのハルカスという巨大ビルもできましたし、梅田の駅は変わりすぎていて、地下鉄の入り口が分からなくなりました。

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家の近所でも介護施設が増幅し、違和感を覚えるほど小洒落たお家もすぐ目の前に出来ました。

 

しかし、どうでしょう?

親も兄弟も親戚も友達も後輩も先輩も、なんでこんなに変わらないんでしょう。

親戚に関しては上記に述べましたが、友達も後輩も変わりません。親兄弟に関しては、驚く程変わらず、この家だけ、四次元ポケットのアイテムでも使って、時計の針が止まっていたんじゃないかと思うほどです。

居心地の良かった部分そうでは無かった部分、両方がそのままです。

 

でも、少し、少しこの家から遠のいた私は、時計が進んでしまったような気がしています。

こことは違う空気を吸って、琵琶湖から引かれていない水道を飲んでいるせいでしょうか?

それが良い悪いと言う話ではなくて、少しばかり寂しいような気持ちになった、それだけの話です。落ち着く部分と、ここじゃないんだと言う気持ちが両方あるんです。

 

私は私が望んで今のところにいるわけなので、私の場所は今は千葉です。千葉で何ができるだろうか?千葉に帰ってから、私と言うフィルターを通して、何ができるだろうか?そんな事を予定をこなしながら考えています。

 

まだ形になるアイデアは浮かんでは来ません。

ただ、自分に必要なものが一つ見えて来ていると思います。

 

 

残りの予定は明日と明後日、明々後日にはまた千葉に帰ります。

 

残りの予定も楽しみつつ、良いネタになるアイデアをストックしたいと思います。(^ ^)

 

 

皆様はゴールデンウィーク、楽しんでいますか??

皆様にとっても何か良いエネルギーが回ると良いですね!帰省されている方は、ご自宅に帰るまで、お気をつけて。^ - ^

 

 

隣の芝生もなんのその

「曲、作ってるの?」

「まぁ、癖みたいなもんだからね」

 

親類に音楽活動をしているサラリーマンがいます。彼は弾き語りオンリーでバンドマンではありません。時折自室で撮った動画をアップするようなスタイルです。楽譜も読めないそうで、以前「楽譜を書けるようになりたい」と言っていたのを覚えています。

 

だからなんでしょうか?

彼の作る曲は誰にも邪魔されない唯一無二を放っています。耳で音を覚え、指でギターを弾き音楽を作っています。

顔も見たことも声も聞いたこともない誰かが作った音楽のメソッドなんて知らないし関係ありません。もちろん知ってるに越したことは無いのは彼も承知でしょう。でも、それよりも自分から出てくるなにかを表に出す方が彼にとっては優先順位が高かった。それだけのことなのでしょう。

 

正直なところ、私の好みはロックなので曲を聴いた当初は少し物足りないと思ったものです。

ですが、最近どんどん深みが増して、曲の中に彼の個性をより感じています。

 

 

ミュージシャン

アーティスト

芸術家

 

ホンモノってこういうのなんだろうな。

プロとかアマとか関係ありません。

彼はきっとそう言った部類の男です。

 

 

癖・・。

癖みたいなものだから・・。

私は一瞬ポカンと口を開けましたが、とても彼らしくって、その響きが好きになり思わず笑ってしまいました。

 

なんて自然体なんだろう。

 

 

 

最近気に入った弾き語りの少年がいます。

崎山蒼志君です。

 

 

流行に遅れを取らないようにヤフーのトップ画面から流し読みをしていたところ、彼にたどり着きました。

 

私は文学的要素が好きな上、熱い女なので、どろっどろっの心情を歌った彼の歌詞には度肝を抜かれました。

 

私の親類と崎山蒼志君は、少し似ています。

 

同じ弾き語りと言っても、熱量のかけ方は真逆ですし、もちろん年齢だって異なります。

 

勝手な感想ですが、蒼志君の歌詞には体の中、血管の中から沸騰するような熱量のある歌詞です。

一方の彼は飄々とした風景の中に溶け込んだ存在として自分を置いて、岩に当たる川面のように時折自分の存在を感じるような歌詞です。

 

そこには、年の差・経験の差もあるのでしょうが、まるで体の内側と外側なくらい印象が違うのです。

 

でも、どこか似てると思ったのは、両者とも間違いなく本人から生まれてくる楽曲だからなのでしょう。

 

私は、芝居の中でも、一つのことに、どんな事をしたらより伝わるかを、しこたま考えたり練習したり閃いたりするのが好きです。

言うなら、一つ黒い石があったなら、その黒を伝えるのにどれだけ黒さを出せるか、どうしたらその黒さを伝えられるか、というとても部分的なところに、こだわったりするわけです。

 

ただ、最近少し臆病になっていました。

こだわりすぎて、手が出せないのでは、仕方がありません。

表現というのは、より素直に何度もぶつかって、たまたまその黒にぴったりな発想が浮かんだりするものです。

 

隣の芝生なんて関係ねぇ。

 

 

あ、言い方がワイルドすぎでしょうか?

でも、今はそんな感じです。

 

息をするように音楽を奏でるように、もう癖みたいに新しい曲を作ったり。

たまたま心がふわっとなるものに出くわして嬉しくなったり。

そんな当たり前の中に、沢山の創造の起点が隠れています。

 

 

 

私も、いつか「癖みたいなもんなんだよね」なんて言ってみたいものです。w w

 

自分流でいるためのメンタル的な話

こんばんは。dbd 半です。

 

久しぶりの深夜の更新。

 

食欲、性欲、睡眠欲。

 

この中で半が最も強いのが睡眠欲です。

 

寝るのが大好きです!

 

大文字にするような事でも無いですが、眠りに入る前の力が抜けてしていく感じがたまらなく好きなんです。

睡眠中のことは、意識がないので知りません。

ただ、あの眠りに入るか入らないかなのまどろみや、一日が終わりもう休んでいいんだーという開放感が、物凄い魅力なんです。夢はだいたい悪夢なんですけどね(●´ω`●)何故だ?

 

でも、時々寝すぎて、人生損してないか?って思います。もっとやることあるだろう?とか、明日やる分今日やればいいじゃん!とかとか。

 

ま、いい大人なので学業に専念する必要も無いので、睡眠時間を削らないといけない生活ではありません。

好きな部類の話や学びを好きな時にできる適度な(過度では無いのが残念ですが)生活スタイルになったのは、幸せだと言えるでしょう。

 

そんな半ですが、芝居がらみとそうでは無い時稀に夜起きている時があります。

 

それが、今日みたいな日。

 

前回の記事より、あらためて自分流って事に立ち戻っています。

 

2年ほど活動してみて分かった事は、周りに飲まれるなっ!ってことです。

先に言いますが、周りの皆さんは全く悪くありません。半がグラついた部分があったのです。

それは、良くも悪くも影響を受けているという話。なら、もっと上手い言い方が出来れば良いのですが、今思いつかなかったのでご勘弁を。

 

私はこの千葉に来て芝居を再活動し始め、自己流で何かと手を出しました。動画をアップしてみたり、お芝居の人と話してみたり、客演をさせてもらったり。

 

その中での経験は、一つ一つ良かったと思えています。何しろ、がむしゃら。(笑)

やれると思うところまでチャレンジできましたし、何より、芝居は芝居でも今まで知らないことにチャレンジすることができたんですからっ!

 

ですが、聞けば聞くほど、絡めば絡むほど、自分の居場所がどんどん小さくなってきているような感覚がどこかにあったんです。

 

 

私は小さな人間です。

我の強い部分はあるくせに、大勢の人や強い語気のある人に言われた場合、だんだんと自分の考えはズレているんじゃ無いかとか、やっぱり言わなきゃ良かったなどと、何遍も繰り返してきました。

 

だから、自分で自分の場所を縮めてしまっていたように思うんです。

自分の作品やアイデアに、これで本当に良いの?面白くないんじゃない?なんて呟いてくる疑心暗鬼君が、私の周りにウロチョロしていたんです。

 

ああ!こうじゃ無い!そうじゃない!の繰り返し。

でも、その奥にはこんな声もあって。

 

失敗しても良いっ!って思って、始めたのに、何を今更失敗を怖がってるんだっ!って。

 

何の話やっ?って。

んー。そうだな。これは、メンタルの話です。

自分流でいるためのメンタル的な話。

 

で、色々考えあぐねて、一つ妙案が浮かびました。

 

私は、自分の中に、自分の部屋を作ることを許してあげようって、思ったんです。

 

そこは、自分の作業場兼遊び場です。

 

そこにいるときは、体面や外的要素は、一旦置いて、自分の中にこもれるというものです。

人の意見も考えも大事。

マーケティングや流行りも大事。

目新しいものや話題性も大事。

でも、でもでも。

一番、大事にしたいのはそうじゃない。

少数派なジャンルかもしれない。

周りから認めてもらえないもしれない。

ベタベタ過ぎかもしれない。

ダッサくて、全く面白くないかもしれない。

(ちなみに、、、面白くないっという言葉は芸人でなくても関西出身者には大きなダメージを与える破壊力があります。・・そして逆も然り。関西人に面白いっ!の一言を与えると跳躍的な好印象を与えるのてす。ビジネスで役立つかも?ですよ!と、話はもどりまして・・)

 

そういう焦れったいのがいっぱいあっても、好きなんだから、良いじゃんって言い張れる、自由で居られる場所です。

 

 

 

私は器用な人間では無いので、何かを作るときは、物凄い集中力を要します。

前にも書きましたが、見るもの全部が作中の物の目線になりますし、台本を書いているときは、一人一人その役者に切り替わっています。まるで自分が即興しながら書いていくような塩梅です。

 

 

ですが、今まではリスタートした勢いで、作品に対して噴射する諸々が有りましたが、それだけでは、足りないのが最近よくわかります。

 

より、マインドコントロールできるように、軸からブレないように、なりたいのです。

 

 

先程、自分の部屋と形容しましたが、言い換えれば、自作に集中するスイッチみたいなものです。

 

今から、思いっきり自分の思ってる事を楽しむ!と言う、スイッチの切り替え。他の人に馬鹿にされても笑われても、自分が面白いっ!って素直に思えるマインド作り。

 

 

周りを見れば見る程ね、周りは良く出来ているように思だちゃうんですよ。

中には羨ましいを通り越して、嫉妬する感情も出てきたりするわけで。

 

そんな時は、素直に凄いね、いいねの一言も言えなくなって居たりします。

完全に妬みですね。

そんな風に思っちゃう自分も嫌でなんとか目を逸らそうとするんです(●´ω`●)

 

 

 

でも、こんな風に自分が自由で居てもいいんだって、思える場所があるなら、自分の部屋があるんだって思えたなら、自分と対比する必要もなく、もっと素直に良いね!凄いね!って、言えると思うんですよね。

 

他の人にから影響をもらえるのは良い事だけど、それに左右されてフラフラしている場合じゃない。

軸はブラしちゃダメ。

 

出来ないことを数えてないで、出来ることをどこまでやれるかに集中すること。

それがいつしか自分流になるのかなって思いました。

 

 

 

 

お蔵入り

どうもdbd 半です。

 

一つ残念なお知らせです。

前年度から、プロデュース作品として取り掛かるつもりだった作品をお蔵入りにすることを決定しました。

初めてのプロデュース作品。初めてのdbdとして他の役者を立てての作品にする予定でした。

 

昨年度からご覧いただいている方は、なんとなくそんなの書いていたかな・・と覚えていらっしゃるかもしれません。

 

良いように言えばタイミング。

でも、本当のところ、私の実現力の力量不足です。

 

 

何かを作り上げるとき、それは大変な熱量を要します。

昨年の私は作品に対してその熱量を持ち合わせいました。

 

しかし、時期をおき、改めて取り掛かろうとしたとき、己の胸の中で昨年との温度差を感じずにはいられませんでした。足踏みしてしまうのです。

作品作りをするとき、私は””大好き""をたくさん閉じ込めます。

こんなのも良いな。あんなのも素敵だな。こんな事したら、面白いかも。

考えているときは、止まらないものです。

 

もちろんそれは、実行できる範囲を想定しての事なのですが、どんなことにも想定外があるものです。それでも作品として産み落としてやる、そんな気概がなければ、迷いが産まれ、頓挫することは免れません。

やればやるほどその痛みはひどくなります。関係者が増えれば増えるほど、その方々への負担も大きくなります。

 

やり始める前に、具体的に何が・・というのは、ここでは言い尽くせません。

ずっと考えいていたことですが、ぼんやりと、ですがハッキリと次に動くためのGOが出ませんでした。

 

それでも、お声をかけさせてもらったお二人には本当に申し訳ない気持ちがいっぱいです。まだ具体的に動き出す前だったとは言え、快諾してくださっていたのですから。

私は有限不実行をしてしまいました。

 

 

今回、dbdを立ち上げてから、強く強く反省する有言不実行は2回目です。

人を巻き込んだ上に、つぎに進めなかったのです。

 

決めた事を貫くというのはとても難しいことだと思います。

特に自分以外の人との関わりは、自分の思うようにならないことがほとんどです。

それだけ柔軟に考えられるか。どれだけ受け入れられるか。どれだけ、芯を折れずにいられるか。

会社などの金銭のメリットがある組織ではないだけに、心のメリットをどれだけ感じてもらえるかは主催によるところです。

私が目指す作品作りは、わがままですが、関係者もみんな楽しんでほしいと思ってしまいます。

 

人とかかわるのは難しいです。

ですが、そのうえで出来上がった作品は一人でやるもの以上の喜びがあります。制作途中の楽しさを分かち合えることは、舞台制作の醍醐味です。人とかかわるからこそ、右往左往する事も沢山ありますが、そこでしか得られる喜びがあります。

 

 

今回、お蔵入りすることになってしまい非常に不甲斐ないばかりですが、今はそんな時期なのだと思います。

どんな事にも、良い波、そうではない波があります。

どうとらえるかはその人次第ですが、出来なかった事を出来たと自分に嘘をつくわけにはいきません。結果は結果です。

 

私はこれからも先、有言不実行をしてしまうかもしれません。

それは信用を崩していくことです。

もちろんやろうとしてそうなる訳ではありません。

 

今回の事は、やはり私の実現力の無さにつきます

 

ですが次回チャンスがああれば、私はチャレンジするでしょう。

他の人にご迷惑をまたかけてしまうかもしれません。

そのたびに、反省したり悔しがったりすることでしょう。

 

でも、それでも何度でもチャレンジする甲斐が、あるものだと思います。

 

 

 

お二人には申し訳ないばかりですが、最後に応援の一言を頂きました。

こんな事を言っていただけるなんて、私は人に恵まれていると思います。

 

 

失敗に飲まれ絶対できないと蓋をせず、機会があればプロデュース作品として『なにか』を届けていきたいと思います。

 

私が完全に諦めなければ、きっといつか出来ると信じたいと思います。